誰も知らない底無し沼殺人事件
ある日のこと。とある森の奥で。
底無しの沼に手を突っ込んで深刻な顔をしている男がいました。
男のそばには小さなカバンと脱いだくつとジャケットが散らばっていました。
通りかかった少女は不審に思って距離を取ったものの、男の表情がこれ以上なく真剣で深刻な様子だったのが引っかかって、足を止めてしまいました。
男が少女に気づいた様子はありません。片手と両膝をついて肘から先はすっぽりと沼の中でした。動きから察するに沼の中をかき回しているように見えます。
まったく何をしているのかわかりませんでしたが、男の顔から真剣さが失われることはありませんでした。しばらくすると男は一息つき、上着を脱いでまた腕を突っ込みました。こんどはもっと深く、肩口まで沼に浸してさらに奥を探っているようでした。
その沼は地元の人間ならば誰もが知っている底無し沼です。水の上ならば浮かんでくる木の枝のようなものも、その沼に入るとたちまちに沈んでしまい、二度と浮かんではきませんでした。少女にとって、男の行動は危険なものでしかなかったのです。
しばらく離れたところから男を観察していた少女は、ついに近づいて話しかけることにしました。
「何をしているのですか。危ないですよ」
男は奇妙な作業を続けたまま体をひねって少女の方を見ました。
そして少女の姿を確かめると、
「探しているのです」
と言いました。
「いったい何を」
「それがわかれば苦労はしない」
男の答えは少女を混乱させました。
「その沼は底無し沼です。落ちたものは二度と浮かんできません。何をお探しなのかわかりませんが、諦めた方がいいですよ」
「諦める?」
男は沼から手を抜いて泥を拭うと、少女の方へと向き、その場に腰を据えました。男はそこで少女の顔を見つめます。
あまりにまじまじと見られたので、少女は居心地が悪くなってきました。
「あなたは親切な方のようだ。ありがとう」
やがて男はそう言いました。
少女はほっと胸を撫で下ろしましたが、男は言葉を続けます。
「だが君はその沼に手を突っ込んでみたことはありますか」
「とんでもない! そんな危ないことはしません」
「危ないことはありませんよ。現に僕は何度もそうしてきた」
「それはあなたの運が良かったのです。いずれ呑まれてしまいますよ」
「そうかもしれない。だが得られるものだってある」
「得られるもの?」
「そうです。この沼には小さな宝がひそんでいる」
「宝ですって? そんな話は聞いたことがありません」
「それはそうでしょう。知っているものは少ない。それに話しても誰も信じない」
少女の心は少し動きました。
「宝って、どんなものですか」
思わず聞いていました。
少女の家は貧しい家でした。
家には病気の母がいて、少女は小さい頃から働いて、家族の生活を支えていました。今日も街で仕事をして、長い山道を家に帰る途中だったのです。
毎日が苦労の連続でした。
宝、という言葉に心が動いたのも無理はありません。
「それは、手にしてみなければどんなものかわかりません。私も手に入れたのは人生で二回だけです」
「何が手に入ったのですか」
「一度目は石。小さなものでしたが宝石商に見せたら大金に変わりました」
少女は驚きました。
「二度目は玉でした。これは売れなかった。だがずっと家に飾っています。それいらい不思議と運に恵まれ、私は裕福と言える身分になりました」
男が淡々とそういうのを見て、少女は沼の方へと視線を泳がせました。
もしもそんなものが手に入るなら、こんな苦労をせずに済むかもしれない。
母親も弟達も豊かに暮らせるのかもしれない。
あまい夢が胸に広がり、少女の心は奪われました。
「あなたもやってみますか」
男は少女に言いました。
少女の心は浮き立ちました。
自分の荷物を地面におき、ゆっくりと腰を下ろします。
どくん、どくん、という胸の高まりを感じながら、少女は袖をまくり上げ、身をかがめて沼の方へと手を伸ばしました。
次の瞬間、男は少女を突き飛ばし、沼に沈めてしまいました。
少女は慌てて沼の淵に手を伸ばしましたが、男はその手を払い、少女を助けませんでした。驚きと混乱と絶望の表情を見せる少女に向けて、
「息を止めて。泥を吸わないほうがいい」
と言いました。
「どうして」
少女は溺れながら何とかそう言いました。
「三度目がなかなか出ないから、生け贄が必要なのかと思ったんだ」
そう言った男の顔を見て、少女は最後の力を振り絞りました。
伸ばした手は男の足首を掴み、しっかりと握り締めました。
不意を突かれた男はすっ転がり自分も沼にはまりました。
少女はさらに頑張って、男を踏み台にして地面の上に登ることができました。
男がバタバタと手を振り回して助かろうとしています。
少女はその頭を二、三度蹴り飛ばし、やがて男は沈んでいきました。
沼の淵で少女はしばらくぐったりとしていました。
ようやく息が整い始めると、こんどはさっきとは違うリズムで胸がドキドキと激しく脈打ちました。やおら思い立ったように立ち上がり、その場を離れようとしましたが、その時そばにあった男の荷物に気がつきます。
男が残した靴や上着を沼に投げ入れました。
カバンも捨てようとしたとき、ふと手が止まってしまいます。
気になってしまったのです。
少女がカバンを開けて中を見ると、きれいな玉の形をした石が入っていました。
少女は玉を取り出すと自分の荷物の中に仕舞い、カバンはやはり沼に投げ入れました。
少女は混乱してまだ何も考えられませんでした。泥だらけの体で、ただ自分の荷物を失ってはいけない、ということを考えて急いで家に帰りました。
短編集2 cokoly @cokoly
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