行き先を決めない旅

 行き先を決めない旅を続けている。

 もちろんパスポートなしに旅は成立しないから、自分の現在地は把握している。

 ただ、次にどこへいくかというスケジュールを立てていないだけだ。

 ゆく先々で地図を眺めたり、ネットで気になった画像を調べたりして、何となく次の目的地を考える。それでも電車で移動しているうちに気が変わることもある。どこへ行っても言葉は通じないし、潜在的な危機への警戒を怠ることはできない。日本は本当に平和だ。平和だった。飢えている人間などいなかった。あくまで食い物の話だ。心が飢えている人間は多かった。僕もそのひとりだった。

 どこかで思ったんだ。


(このままじゃ狂っちまう)


 その考えが浮かんでからは地獄だった。

 狂っちまう

 狂っちまう

 そう思いながら働いて飯を食って風呂に入って寝ていた。

 仕事はそこそこの忙しさだったがその割に給料は良かった。嫌な人間関係もなく、実に平和な会社だった。

 何が不満だったのか?

 不満はなかった。

 なかったけれど、我慢できなかった。

 酒にも女にも金を使わなかったせいで、貯金だけがあった。

 僕はまったく正体の不明瞭な心のざわめきに従って、五年勤めた会社を退職しアパートも引き払って旅に出た。飛行機に乗って日本を離れたのは、退職の三日後だった。すべてその日のために調整して一気に片付けた。同僚の驚きや引き止めの声も追いつかない素早さだった。



 ホテルの部屋は三階で見晴らしがよかった。ビルと呼べる建物がない町で、同じような造りの家が延々と広がっていた。素朴で貧しさを感じさせたが、宿は綺麗だし、心地よい静寂がある。

 どんな土地へ行っても安宿はあって、鍵の怪しいところもあったが、おおむね東京都心の蜂の巣ワンルームに比べれば遥かに快適だ。

 窓辺から街を見渡し、自分がなぜ旅に出たのか考え続けた。どこへいってもそうしていたが、答えはまだ見つからない。

 可能な限り旅を続けたくて、ゆく先々で質素に過ごしている。

 観光名所にもほとんど行かない。

 食事も地元のスーパーで買い物したり、可能なら自分で作る。

 貴重品以外で持ち運んでいるのは最小限の着替え、ノートパソコンとスマートフォン。ほとんどこれだけだ。

 取り留めなく支離滅裂な思考の流れを浮かんだそのままに拙い言葉でブログに書くことだけが世界とのつながりだった。もちろんアクセスなんかほとんどない。

 僕は明らかに孤独だったが、不思議と東京にいる時よりは満たされていた。


 ホテルから少し歩くと川縁に出て、さらにに十分ほど歩くと海に出られた。

 海につづく遊歩道を歩きながら、何かの記憶が過ぎった。

 日本のどこかの、海辺の街。

 僕はときどき、海辺の街のことを考える。

 漁港があって、風が強くて、堤防があって、砂浜があって……

 どこも設備は同じで似た雰囲気がある。

 気がつけばそんな街ばかり選んで移動してきたようだ。

 とちゅう立ち寄ったパン屋でパンとコーヒーを仕入れ、僕は海へ向かった。

 遊歩道は河口付近で枝分かれして片方は防波堤と一体化して横に伸びた。

 そのまま遊歩道を歩いていくと何箇所かに海に面するベンチがあって、そのうちのひとつに腰を落ち着けた。もう少し待てば、陽が落ち始めるはずだ。

 昨日もこうしていた。

 太陽が高度を落とし夕陽に変わり、沈んでいく。

 その変化を始まりから終わりまで見ているうちに、涙が出た。

 何の涙だったのか、わからない。

 だから、それをもう一度確かめにきたのだ。

 感動なのか

 悲しさなのか

 懐かしさなのか

 僕は食べかけのパンとコーヒーを両手に、昨日と同じ場所にいた。

 そして夕日を待った。


 不意に肩をたたかれた。

 気がつくと、すぐそばにお婆さんと小さな男の子の二人連れが立っていた。

 呆然としていると、お婆さんに促されて、男の子が僕に何かを差し出した。

 コーヒーを置いて受け取ると、それは貝殻だった。

 名前はわからないが、美しい七色に光っていた。

 僕が顔を上げると、少年は何かを言った。

 何言ってるのかはわからなかった。

 目に浮かぶ表情だけは理解できた。

 お婆さんは深みのある笑みを浮かべ、やはり何か言って僕の肩に手を置くと、子供と一緒に去っていった。

 すっかり冷めたコーヒーを飲み干してホテルに戻ると、起きた出来事をブログに打ち込んだ。それから、次の街へ旅立ちの準備を始めた。

 小さな荷物が、ひとつだけ増えた。

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