夜に浮かぶボート

 ボートに乗っていたのは僕だけだった。

 波は気味がわるいくらいに穏やかで、公園の池で貸しボートを流しているのと、ほとんど差がなかった。

 寝転んで空を見上げているだけでもボートは流れていた。

 オールは片方しかなく、帆もついていない。

 そもそも風が感じられない。

 ちゃぷちゃぷ

 と小さく船を打つ波の音がするだけだ。

 僕は海の上でひとりだった。


 ほんの一時間前までは必死にオールを漕いでいた。その時はまだ海は荒れていたのだ。

 何とかどこかにたどり着かねば、そう自分を奮い立たせて必死になっていた。だが自分の疲れに目が届いておらず、ちょっとした波に手を取られて、オールを流してしまった。一瞬前まで自分の手元にあったものは、瞬く間に波に呑まれ、浮き沈みながら離れていった。

 片方だけではボートを制御できず、僕は考えを変えてオールを船の中にしまい、体全体で船体にしがみついた。

 ただ、振り落とされないことだけを願ったのだ。


 気がつけば嵐は収まっていた。

 僕は悪夢から覚めたように身を起こし、姿勢を変えた。

 そして体の力を抜いた。

 夜になっていた。

 海と空の境目がわからなかった。

 どの方位を見ても陸地が見えない。

 明かりの無い夜は、凄まじい闇だった。

 巨大な暗闇のドームだった。

 星の光よりも闇の濃さが優っていた。

 遠いとか近いとか、距離感が麻痺する闇だ。

 こんなに黒い夜は初めてだった。

 空間に果てを感じられず、僕は無意識にボートの縁を手で掴んでいた。

(黒って、こんな色なんだな)

 困惑する感覚の中で頭だけが冷たく、そんなことを考えていた。

 どうしようもない。

 どうにもできない。

(あんなに必死で生き延びようとしたのに)

 そう思うと不思議だった。

 だが目の前の夜はあまりにも圧倒的だった。

 自分が何かをなしうる存在だと考えるのは痴がましいことだった。

 夜の前で、ひとは無力だ。

 それを悲しいとも悔しいとも思えず、淡々とした事実として受け止められた。

 心が闇を受け入れた時、星の輝きが増したように思えた。


 心ばかりが激しく動いている。

 僕自身はなにもできない。

 何をする術もない。

 ただじっとしていると、心は動いてしまう。

 心だけは、活動をやめなかった。

 感覚が研ぎ澄まされてゆく。

 僕は夜の真ん中で宙に浮いていた。

 何の支えもなく、ゆらゆらと漂っていた。

 これが人間なんだ。

 その言葉が生まれた時、僕の人生がようやく始まった気がした。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る