入院生活

第33話 知己朋友

 入院中の渉は何も出来ることがない。ただひたすら退屈であった。本も無ければ、ペンもなく、思考をまとめるための紙も無い。怪我は大分具合が良くなってきた。しかし、何もできない。

 夕陽が差し込む。もうすぐ、夕飯の時間だ。そのようなことを渉が考えていると、ノック音が聞こえた。渉は看護婦だと思い、「どうぞ」と声をかける。扉が開く。そこにはかつての恋敵、加藤正清が花を抱えて立っていた。この男の整った精悍な顔つきや自信に溢れた性格、若々しさ、全てが渉のコンプレックスを刺激していた。本来であれば、瑠璃子の隣に立っているのも彼であった筈だ。渉はその考えを隠すように微笑いながら、会釈をする。正清は穏やかな顔をして、花を活ける。静かな時間が流れる。窓の外からは烏の鳴き声が聞こえて来る。不意に正清が口を開いた。

「お怪我の具合はいかがですか」

 渉は驚いた。この青年が自分のことを考えていることにだ。自分は瑠璃子の付属品くらいにしか思われていないと渉は考えていた。

「ええ、大分よくなってきましたよ」

「では遠慮なく」

 渉の右頬に力の籠もった拳が入る。渉の目に一瞬星が散る。口の中で鉄錆の味がした。

「痛い……じゃないですか。俺は怪我人ですよ。やるなら、もう少し軽くやって下さいよ」

「お黙りなさい。貴方、命よりモノを大事にしたと瑠璃子さんから伺いました。貴方が死んだら瑠璃子さんを誰が幸せにするのです。第一、前にも申しましたよね。瑠璃子さんを不幸にしたら許さないと」

「それは……ソノ……すみません。つい、癖で」

 正清は渉の胸ぐらを思いっきり掴む。

「ついもへったくれもありません。瑠璃子さんを幸せに出来るのは貴方しかいないのです。それが軽々しく命を投げ出す真似はしないでいただきたい」

「お言葉ですが、正清さん。俺は貴方みたいに顔も背もなく女性に気の利いたこと一つも言えないただのオジサンです。こんなオジサンよりも貴方の方が瑠璃子さんにふさわしいと思ってしまう自分がいます」

 渉は自分の本音を、まさか正清に話すとは思ってもいなかった。言葉は堰を切ったように止めどなく出てくる。

「瑠璃子さんと一緒にいると幸せなのですが、不安になるときも時たまあります。それは瑠璃子さんに不自由をさせたり、正清さんみたいな気の利いたことを言えないときです。瑠璃子さんをがっかりさせていないか。俺と一緒にいて楽しいのか、不安になってしまうのです」

 夕焼け空が藤色に染まりつつある。花瓶の影が先程よりも長くなった。正清はため息をつく。

「それは恋に敗れた私に言うことですか。嘆かわしい。いいですか。私でなく貴方が瑠璃子さんに選ばれたのです。気の利いたことが言えなくても、貧乏でも、貴方の誠実さとひたむきさに瑠璃子さんは惚れたのです。もっと自信を持ってください」

 正清はそっと窓側を向く。風がさらさらと流れてくる。

「私は貴方のそのひたむきさが羨ましく思えます。私は貴方みたいに一つのことに情熱を持ち得ませんでしたから。それに、自分を作って生きています。誠実なんかではありません。私は貴方がとても羨ましいです」

「えっ……いや、どうも……」

 正清は表情を見せることはなく、語り続ける。

「私は幻想の恋人をずっと瑠璃子さんに重ねてきました。理想の瑠璃子さんよりもいまの瑠璃子さんの方がずっとずっと好きで今でも大切です。ですから、私が認めた貴方に瑠璃子さんを幸せにしていただきたいのです」

 渉は困ったように笑う。

「はい。がんばります。どんなことがあっても、瑠璃子さんを幸せにします」

「約束ですよ」

 正清は振り向く。清々しい表情をしていた。

「はい、約束です」

 二人は微笑み合う。ほんの少し前に知り合ったのに、まるで旧知の友のように渉は感じていた。

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