第30話 憂鬱な日曜日
空がだんだんと白み始める。深い群青色から段々と朝焼けの色に変わり始めた。瑠璃子ははっと目を覚ます。いつのまにか眠っていたらしい。瑠璃子の膝の上では秀臣が頭を乗せて眠っていた。背の低い警官は近くにある木によりかかりながら、瓦礫の山と化した横浜の街を見ていた。瑠璃子はそうっと秀臣の頭を芝生の元に下ろす。
「もし、お巡りさん。お巡りさんは怪我とかなされてませんか」
「ああ、特段怪我はしていない。お嬢さんは大丈夫かい。寝言でワタルサンとか言っていたが……」
「そう……そうです。私、渉さんを助けに行かないと」
「待ちなさい。それはせめて、夜が明けてからにしなさい」
「お巡りさんに大切な人はいないのですか。大切な人の命が一番大切ではないのですか」
瑠璃子は背の低い警官に詰め寄る。警官は黙ったまま瑠璃子のことを見つめる。そして重々しく唇を開いた。
「大切な人は……いるにきまっているだろう。昨日横浜で夜に会う約束をしていた大切な友がな。俺だって奴の安否をしりたい。本当は駆け出して行きたい。だけどな、お嬢さん。俺は私情で動けない立場だ。その上、今動いて怪我でもしたらどうする。冷静になりなさい」
警官は手を強く握りしめている。その言葉はまるで自分に言い聞かせているようだ、と瑠璃子は思った。瑠璃子はそっと警官の隣にしゃがみ込む。
「お巡りさん、お巡りさんの大切な人ってどんな人なんですか。夜が明けたら、その方も私探してみます」
「いいよ。奴は不死身みたいなもんだから。あぁ、でも死体が苦手だからなぁ。無事でもどこかでひっくり返ってるかもしれん」
そんな他愛もない話を警官と瑠璃子がしていると、やがて眩しい光を伴い、太陽が顔を出した。
「ご覧、どんな時でも太陽は顔を出す。お嬢さんも気落ちしないようにな。俺は生き残った警官が他にいないか探しに行くよ」
瑠璃子は警官の手を取る。警官の手は身長の割にはごつごつとしていて大きい手であった。
「お巡りさん、ありがとうございました。お気をつけて下さい。最後に、お名前を教えてください」
「名乗るほどの者でもないさ。では、気をつけて」
警官は敬礼をして立ち去っていった。温い風が吹く中、瑠璃子はその警官の後ろ姿を見送る。瑠璃子は眠っている女中をそっと揺り動かす。女中はすぐに目を覚ます。
「私、渉さんを探しに行ってきます。秀臣をよろしくお願いしますね」
「お嬢様……それはなりません。一緒に私とお坊ちゃんも行きます」
「なりません。貴女たちはどんなことをしても生き残るのです。ではあとはよろしくお願いします」
瑠璃子の決意は固い。女中と秀臣を置いて瑠璃子は駆け出す。代官坂を下り、隆起してひび割れた道路を越え、瑠璃子は走る。元町も山手の外国人街も瓦礫の山だ。焼け残った家も何軒かは見えたが、今の瑠璃子には渉以外の人間は見えない。
日本大通りも悲惨な有様であった。税関の建物も崩れ落ち、壁の一部以外は全て崩れ落ちている。小西株式会社の倉庫は税関のある通りにあった筈だが、いまはその建物さえも分からない。瑠璃子は呆然と立ち尽くす。そこには、逃げ遅れてしまった人々の遺体が多くあった。瑠璃子は大きな目に涙をいっぱい溜めて、通りを歩く。生き残った人々もちらほらと瓦礫の山の中にいた。
「もし……小西株式会社の倉庫はどちらにあったか、ご存知でしょうか」
「ああ、そこだよ。そこの一等大きな瓦礫の山さね。お嬢さん、人探しかい」
「ええ……婚約者を探しております……この辺の方々がどちらにお逃げになったかご存知ですか」
「ああ……知らないね。オジサンは偶々命が助かっただけさ。それより、横浜正金の方とかは絶対行くなよ。あっちも酷い。生き残りはほぼいねえからな」
「ありがとうございます」
瑠璃子は小西株式会社の倉庫の跡を見つける。美しかった白い木造の建築は焼け落ちていて、最早元の色すら分からない。瑠璃子は瓦礫の山に入る。軽い瓦礫を一つ一つどかしてゆく。黝んだナニカも見えるが、瑠璃子は懸命に渉が生き残っていると信じて瓦礫をどかしてゆく。陽が高く登る頃、瑠璃子は後ろから肩を叩かれた。渉かと思い期待して振り向くと、そこには女中と秀臣がいた。瑠璃子は糸を失った操り人形のように崩れ落ちた。
「お嬢様、この辺りに生き残った方々はほぼ……今港の方も見てきましたが酷いことに……」
女中は涙を流していた。瑠璃子は泣くのを堪えている。
「嘘、嘘です。渉さんはきっと生き残っています。私は婚約者を探さねばなりません。いいですか、千葉。秀臣をくれぐれもよろしくお願いします。私は渉さんの御宅の方まで行って参ります」
秀臣が姉に抱きつく。
「ダメです、姉様。今は僕らが生き残るのが大切です。一度おうちに戻って食料とか焼け残りがないかとか、色々と探しに行きましょう。先生はきっと生きていますから、今は僕らの命を優先しないと」
瑠璃子は大粒の涙を溢す。渉の捜査を諦めろと言われたようなものである。秀臣の一言はなによりも正論であった。瑠璃子は小さく頷く。秀臣は瑠璃子の手をとり、歩き出した。
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