関東大震災

第29話 横浜の惨劇

 大正十二年、九月一日土曜日。前日に来ていた台風も去り、太陽が顔を出す。蒸し暑いが少しだけ風が吹いていた。朝、瑠璃子は秀臣と朝食をとり、庭を散策していた。瑠璃子の父は出張で東京に行っている。ふみと正清の新婚夫婦は京都へ旅行に出かけていた。渉はというと、ふみの父から貰った社史編さん事業の調査で日本大通り方面にある小西株式会社の倉庫で仕事をしている。瑠璃子は秀臣と木陰で本を読んでいた。何気ない日常。秀臣が「新しい本をとって参りますね、姉様」と家の中に戻ろうと踵を返そうとしたその時であった。その時は誰も予期していなかった。予期していたとすれば神ぐらいであろう。突然、突き上げるような揺れが来た。のそりのそりと強い揺れが彼女等を襲う。瑠璃子は四つん這いになり、身動きがとれなくなる。秀臣は思わずよろけ、地面に伏す。瑠璃子は唖然として、自宅を思わず見上げると、自宅は緩やかにみしりみしりと音を立て始めた。ほんの少しの不気味なほどの静寂。次の瞬間、瑠璃子と秀臣の思い出が詰まった家は、みしみしと音をたてて崩壊を始めた。梁が、壁が屋根が崩落してゆく。姉弟は黙ったままその様子を見ざるおえなかった。気持ちの悪いほどの静けさが二人を襲う。そのとき、女中が一人、瓦礫の山の中から出てきた。この日、結城邸にいた女中は三人。ほかの二人の安否はしれない。女中は裾についた埃を払うと、瑠璃子の元に駆け寄ってきた。

「お嬢様、ご無事ですか。お坊ちゃまもいらっしゃってよかった……」

「ええ。秀臣も私も無事だわ。ありがとう。岡田と小田は」

「お屋敷の中にいたのですが……二人はきっと……それよりもお嬢様とお坊ちゃまを安全なところへ連れて行くのが女中の勤ですわ。お坊ちゃま、お嬢様立てますか」

 瑠璃子はよろめきながら立ち上がる。秀臣の深い青の瞳には恐怖の色が宿っている。女中は秀臣の手を引き歩き始めた。瑠璃子はもう一度自宅を振り返る。そこには楽しかった日々の残骸が残されていた。

 三人は山手の外国人街の方向に向かう。外国人街も美しい景色が広がっていたのだが、今は瓦礫の山とかすかに残るコンクリートや曲がった電信柱だけが残されており、避難する外国人たちも見えた。道中瓦礫に埋まって動けない人もいた。瑠璃子がそちらに目をやれば女中が「今はご自分の命の方が大切です」と諫める。三人は瓦礫の山を乗り越えて、進んでゆく。

 元町に着くと、元町も悲惨な有様であった。崩れた商店の店主がぼんやりと立っていて店番をしているように、瑠璃子には見えた。また、ぐわんぐわんと強い揺れが人々を襲う。数少ない生き残った人たちも何かに掴まっていた。茶屋も、渉と一緒に食べた甘味屋も、浅間神社も皆崩落していた。人はちらほらいるがいつもの活気はない。あの恐ろしき残骸の中に取り込まれてしまったのだろう。瑠璃子の顔をぬるい風が伝う。ふと、日本人街の方向を見れば、火の手があがっていた。

「お嬢様、逃げましょう。山手公園の方まで行けば火からは逃げられます」

「そうね……。行きましょう」

 三人は走り出す。背の低い警官が「逃げろ逃げろ」と人々を誘導してゆく。そのときの警官の顔を見て、瑠璃子は思い出した。そう、恋しき渉の存在だ。渉はいま、日本大通り方面にある倉庫の中にいる。あちらは火の手が上がっている。木造建築はあっという間に火の粉を纏い、凶器にその身を変えてゆく。

 瑠璃子は思わず、立ち止まった。女中も訝し気に立ち止まる。警官がかつかつと寄ってくる。

「お嬢さん、早く逃げるんだ。じきにここにも火がくる」

「千葉、すいませんが秀臣をお願いします。私、いかないと。渉さんを助けにいかないと」

 瑠璃子は走り出そうとする。しかし、警官によってそれは阻まれる。

「退いてください。私、婚約者を助けにいかないといけないのです」

「いけません。あちらは火の手が激しくなってきている。大人しくお逃げ下さい」

「でも」

「今は心配だと思いますが耐えてください。生きているかどうか分からない人よりも確実に生きている貴女という一人の人間を救わないと、職務が全うできません」

 だんだんと火の手が迫ってくる。じりじりと熱い空気や風が近づいてきた。

「ほら、早く走ってお逃げ下さい。出来るだけ急いで」

「すいません、お巡りさん。行きましょうお嬢様」

「嫌……渉さんと離れ離れになるのは嫌……渉さんが死んじゃうかもしれないのに」

 すると警官が瑠璃子の手を強く掴み、走り出す。女中はそれに従い、秀臣を連れて走り出す。四人は山手公園の方向に代官坂を登り逃げてゆく。山手公園からは瓦礫の中、真っ赤に燃え盛る横浜の街並が確認できた。

 瑠璃子は思わずその場にへたり込む。秀臣が姉をそっと抱きしめた。

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