日常
第21話 とある一日の風景
本がうず高く積まれた部屋。渉は一人、本を寝食をもせずに読んでいた。少し前までは自分のための研究であったが、今は違う。今は婚約者の瑠璃子との幸福な未来のために彼は研究を進めていた。
渉は原稿用紙にペンを置き、伸びをする。瑠璃子に貰った時計を見るともうすでに六時だ。窓から見える朝焼が眩しく感じた。ひと段落したし、食事でも取ろうと考えた渉だが後ろを振り向き、戦慄した。そこには瑠璃子が小さな寝息をたてて寝ていたのである。
渉は仕方なくそろりそろりと台所へと向かう。後ろから小さな呻き声が聞こえた。渉は知らんぷりをしてお湯を沸かし始める。背後を気にしつつ、渉は米を茶碗によそい、沸いた湯をそのままかける。渉特製の湯漬けの出来上がりだ。渉はずるずると湯漬けをすすり始める。
「なにを食べていらっしゃるのですか」
背後から可愛らしい声が聞こえてくる。渉がゆっくりと振り向くとそこには、瑠璃子が寝ぼけ眼を擦りながら身体を起こしていた。おまけに着物は少しはだけていて胸元が少しだけ見えるのである。
「おはようございます。瑠璃子さん……エット……いつからいらしたのですか」
「いつって……そうですね……三日程前かしら」
三日。三日も渉は婚約者を放置して書物にあけくれていたのだ。渉は顔から色が消えていくのが自分でも分かった。
「それで、渉さん。論文は書けそうですか」
「うぅ……まだそれは何とも言えないです」
瑠璃子は渉が持っている湯漬けに目をつけた。
「あ、渉さん。またそんなのばっかり食べてるんですか」
「えぇ……アノ……お腹すいてますよね……」
「はい」
「食べます?湯漬け」
「湯漬け?食べたことないです。それはなんでしょう」
「エット……米に湯を注いだだけの食い物です。いつもなら茶を沸かすのですが、今日は生憎切らしていまして……」
「まぁ。食べてみたいです」
渉は自分が持っていた茶碗を瑠璃子に差し出した。これしか茶碗がなかったのである。
「どうぞ、お召し上がりください」
瑠璃子はさらさらとした米粒をしげしげと観察して小さな一口を入れて咀嚼する。
「うちのお米とは違いますね」
「多分、瑠璃子さんのお家は白米ですね。うちは何分貧乏なものですから」
「また、そんなこと仰って」
「現実、見ればわかるでしょう。ボロボロの修繕もされてない長屋に煎餅布団、茶も無ければ本しかない」
「それでも。そんなこと言ってはなりません。そうだわ」
瑠璃子は両手を軽く叩いた。何かを思いついたようだ。
「今日、時間を私に下さい。神社にお参りに行きましょう」
「神社ですか……どこのですか」
「霊験あらたかなお稲荷さんです。そこのお稲荷さんにお願い事を叶えてもらうにはお団子を手作りして持っていくのがいいらしいです。ですから渉さん、材料を買いにいきましょう」
二人は長屋を出る。渉は結局瑠璃子に湯漬けを平らげられてしまったので、腹がすさまじい音を立てている。それを瑠璃子は不思議そうに聞いていた。
「渉さん、もしかしてお腹すいてますよね……」
「そんなこと、ないですよ。ここが、一番近い商店ですけど、瑠璃子さんがお探しのものはありますかね」
「ありますよ、きっと。ごめんください」
ガラス戸を開けて二人は店に入る。気の良い婆さんが店番をしている店だ。
「オヤ、先生。先生……そんなお嬢さんを連れて……まさか生徒さんかい」
「イエ、俺の婚約者です」
「瑠璃子と申します。よろしくお願いします」
「オヤオヤ……まさかあの朴念仁の先生にお嫁が来るとは……今日は必要なものを言っておくれ。この婆からの餞別じゃて。今後もご贔屓にしておくれ」
二人は茶と米と団子粉と砂糖を持ち、商店から出る。重いものは渉が持っており、千鳥足に近い足取りになっていた。舗装されていない道である。渉は石につまづくとそのまま倒れて動かなくなってしまった。それに狼狽えたのが瑠璃子である。瑠璃子は道行く人に医者を頼むよう叫んだのである。
次に渉が目覚めたのは、自宅の煎餅布団の上であった。近所の子供たちやお医者。瑠璃子が心配そうに渉を覗き込んでいた。
「あ、先生目が覚めた」
「俺、かぁちゃんに言ってくる」
子供は無邪気なもので渉が目を覚ましたのを確認すると風のようにすぐいなくなってしまった。お医者が渉の脈をとる。
「過労、でしょうな。睡眠とそれから食事をしっかりとることですな。お代はそちらのお嬢様から頂いたので……栄養をきっちりとって下さい」
「いや……どうも」
「渉さん、ごめんなさい。私ったら……どう謝ってよいのか……」
渉は瑠璃子の髪を撫でる。さらさらとしていて手ぐしがすぐに通る綺麗な髪だ。
「構いません。それよりご面倒をおかけして申し訳ございません」
「良いのです。渉さん。それより、先生は栄養と仰っておりましたね。私、渉さんが目を覚ますまでにおかゆを作ったんです。召し上がられますか」
「ああ、ありがとうございます。ぜひ」
次の瞬間、渉は目を丸くした。瑠璃子が言うおかゆは米粒の形がほぼ残っているところとドロドロに溶けたところとあるものだった。渉はおそるおそるおかゆを口に放り込む。米には芯が残っており、茶漬け類しか食べない渉にとっても形容し難い味であった。瑠璃子は笑顔で「いっぱいありますから。いっぱいお食べ下さい」と告げる。渉は遠慮するとも言えずに、茶碗二杯分を食べ切ったのである。
腹が膨れた渉はだんだんと眠くなってきたのである。瑠璃子を手招きする。瑠璃子はきょとんとした顔をしていた。渉は身を起こし、瑠璃子を抱きしめた。
「瑠璃子さん、布団に入っていただいてもよろしいですか」
瑠璃子は顔を真っ赤にしてこくんと頷いた。瑠璃子は渉に導かれるまま、布団に入る。渉は瑠璃子の身体に手を回し、瑠璃子の香りを胸いっぱい嗅ぐ。
「瑠璃子さん、瑠璃子さんは柔らかい。柔らかくていい匂いがします」
「まぁ、渉さんたら。渉さんはなんとなく古い本のような匂いがしますよ」
その会話を最後に渉は意識を手放した。瑠璃子は「おやすみなさい」と告げ、お昼寝の姿勢に入ったのである。
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