第19話 瑠璃子の撰ぶ道
「エット……あの……加藤さん、瑠璃子さん……お幸せにどうぞ」
渉は書きかけの原稿を回収し、店の出入口に向かう。それを止めたのは瑠璃子であった。
「待って下さい。どうして、貴方はいつもそんな風なのですか」
渉は瑠璃子と正清に背を向けながらぽつりぽつりと語り出す。
「そこの加藤さんは俺よりも……ずっと瑠璃子さんのことを考えています。俺のことをこき下ろしてるようにみえて実は俺のことと貴女のことをずっとずっと思ってくれている方です。俺に対しては家格の釣り合いや今後の付き合いのこと。瑠璃子さん、貴女に対しては今後の生活のことを誰よりも心配して下さってますよ」
正清は帽子を片手で弄びながら、微笑む。
「さぁ。どうでしょうね。ただ単に貴方を愚弄しただけかもしれませんよ」
渉は振り返る。その相貌は哀しげな微笑みを携えていた。瑠璃子が渉の袖を掴んでいる。その手を渉はゆっくりと両手で包み込む。
「いいですか。この方は俺とは違う。何でも貴女の望むことは叶えてくれます。性格も良いし、愛の言葉も泉の如く湧いて出てきます。俺は貴女の幸せを祈り続けますよ。今までありがとう、瑠璃子さん」
瑠璃子は渉の両手を振り払うと、その勢いのまま渉の頬を叩いた。
「そんなの独り善がりじゃないですか。渉さんは相変わらず良くない、良くないです」
瑠璃子の頬を大粒の涙が伝う。渉は思わず瑠璃子を抱きしめた。温かい。瑠璃子のぬくもりが渉に伝わる。
「すいませんね。独善的で。でも、分かって下さい。俺みたいな、貧乏で学しか取り柄がない者よりもずっとずっと加藤さんの方が瑠璃子さんにふさわしい」
正清は相変わらず、微笑みを絶やさない。正清は瑠璃子の肩をそっと叩いた。
「恋敵も勝負から降りたことですし、瑠璃子さん。私と結婚しましょう。私の子供を産んでください」
瑠璃子は小さく嫌々をする。泣きじゃくって渉から離れようとしない。
「童のようですよ、瑠璃子さん。サァ、貴女の居る場所は俺の胸の中じゃない。加藤さんだ。これから俺のことなんか忘れて幸せに暮らして下さい」
そっと渉は瑠璃子の顔を指でなぞる。涙で腫れた目が痛々しい。瑠璃子は子供のように嗚咽し、渉のことを力のない手で胸を殴り付けている。
「渉さん、私は渉さんが良いのです。貧乏でも何でも、私のためにいつも一所懸命で、無理をしてくれて、お茶漬けしか食べなくて、学問しか能がなくても貴方が良いのです。結婚したい程、死が二人を分かつまで一緒にいたいのです」
加藤は口角を上げた。主人は席を外している。誰もいない店内で瑠璃子の泣き声だけが響いていた。
「どうですか、石田さん。こんな気持ちを抱いてる女性を貴方は放っておくのですか」
「貴方まで、何を言い出すのですか」
「ふふ……もう結果は分かり切っていたことです。それでも瑠璃子さんとデェトして思い出を作りたかった。あわよくば一緒になりたかった……。やはり瑠璃子さんは貴方を選んだ。この意味がわかりますね」
正清は深めに帽子を被り、渉の肩に手を置いた。正清と渉は一瞬だけ目線を交わす。
「お幸せにどうぞ。結婚の際は何卒お呼びくださいね」
そうとだけ告げて正清は店を出て行った。静かな店内には二人だけが残された。瑠璃子は相変わらずぼろぼろと涙を零している。
「瑠璃子さん、瑠璃子さんの気持ちは良く分かりました……アノ……エット」
「なんですか、あのときの接吻と言葉は嘘だったのですか」
「嘘ではないですが……本当に俺でよろしいのですか」
無言で瑠璃子は肯く。渉は瑠璃子の顔を見つめる。青い瞳、白磁のような肌は今は真っ赤に染まっている。
「俺、その……こんなところじゃなくてアノ……もっと綺麗な所で言いたかったのですが……瑠璃子さん」
「はい」
「俺と結婚していただけますか」
「勿論です。貴方じゃなきゃ嫌です」
渉は瑠璃子を離そうとするが、瑠璃子が離れようとしない。
「アノ……瑠璃子さん…その……ご主人が見てらっしゃいますので……そろそろ」
店の主人は豪快に笑う。瑠璃子は主人に漸く気が付いたのか、顔と耳が羞恥のあまり真っ赤に変色していく。
「いいものを見せてもらったよ、石田くん。サテ、今日は私からの結婚祝いだよ。好きなものを食べていくといい」
「ありがとうございます。ご主人。サァ、瑠璃子さんお掛けください。ここのコーヒーとサンドウィッチは絶品ですよ」
明かりが灯り、やがて夜になる。満点の星空が渉と瑠璃子の行先を祝福しているようであった。
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