第18話 二つの道
大正十二年六月十四日。梅雨の時期でいつもならしとしとと雨が降っている。今日は瑠璃子の心とは裏腹に、快晴であった。
午前六時、瑠璃子は父親に揺さぶられて目が覚める。生温い朝。今日は忌々しいあの加藤正清という青年との約束の日だ。瑠璃子の気分は最悪であった。一方父はその場で小躍りをしそうな雰囲気を醸し出していた。父が今日の衣装にと用意したのは水色の簡易服であった。瑠璃子は寝ぼけ眼を擦りながら、黙々とそれに着替える。その簡易服は足が細長く伸びている瑠璃子にはとてもよく似合っていた。部屋から出ると、そこには父がいた。
「ああ、綺麗だよ瑠璃子。お前もお母さんにそっくりだ。髪の色は私譲りだがね」
瑠璃子は淡々と答える。
「ありがとうございます。本日の行程は」
「私は何も知らないよ。全て正清くんにお任せしているからね。いいかい瑠璃子、くれぐれも正清くんに失礼のないようにね」
そう、恋しい渉ではなくて、今日は正清とのデェトであると嫌でも自覚させられた。瑠璃子と父は朝食をとりに食堂へと向かう。朝食は卵焼きとトーストであった。食後に紅茶を出され、瑠璃子は大人しくそれを飲む。父は何も不平不満を言わない瑠璃子を見て、少し不安に思った。そして、渉ではなく、正清を選ぶことを心中では願ったのである。やがて玄関の呼び鈴が鳴る。瑠璃子と父が玄関に向かうと、そこには正清が笑顔で帽子を携え立っていた。
「おはようございます。私の姫君、瑠璃子さん。お迎えにあがりました」
「おはようございます。加藤様」
「瑠璃子、普段通りにしなさい。しないと、正清くんに失礼だぞ」
「構いませんよ。お義父様。今日は瑠璃子さんの嫌がることは一切致しません、ですが」
正清は瑠璃子の手をとり、手に口付けを落とす。瑠璃子は嫌悪感でいっぱいなはずなのにその手を振り払えなかった。
「これくらいはさせてください」
そう囁き、瑠璃子の手を自らの腕に絡ませる。瑠璃子と正清の距離が縮まる。正清の神に作られたような端正な顔立ちに思わず瑠璃子の顔は赤く染まる。
「緊張されてますかな」
「ええ。とても」
正清は瑠璃子の耳元で囁く。正清の熱い吐息が瑠璃子の耳にかかる。
「安心して下さい。今日であの貧乏学者のことは忘れさせて差し上げます」
瑠璃子は怒りのあまり正清から離れようとするが、正清はしっかりと瑠璃子の手をホールドしており、離せない。
「ハッハッハ……若いというのはいいね……正清くん、娘をよろしく頼むよ」
瑠璃子は正清にエスコートされ、花緑青色の車に乗る。今日の運転は正清本人のようだ。
「私は運転が趣味でして……今日は良いところに連れて行って差し上げます」
「かしこまりました。お手柔らかにお願い致します」
「澄まされている貴女はとてもお美しい。でもそんな貴女の本当の顔を見てみたくなる」
「気障な方、ですね」
「これが性分なもので……もうすぐ海が見えてきますよ」
小高い丘の上に正清は車を寄せる。瑠璃子が車から降りると、そこには横浜の港ときらきらと輝く海が見えた。
「今日の天気がよくて、よかった。貴女に一番これを見せたかったのです」
「……ありがとうございます」
正清はそっと瑠璃子の肩を抱く。瑠璃子は思わず正清を跳ね除ける。正清は微笑みを絶やさない。
「失礼、瑠璃子さんが嫌がることは致さないという約束でしたね。では、ちょっと散歩でもしましょう」
腕組みをし、気持ちの良い風を全身に浴びながら二人は歩く。正清は気持ち良さそうに愛の言葉を囁くが、瑠璃子の耳には届かない。彼女の心の中は渉に申し訳ない気持ちでいっぱいであった。
「お腹が空きませんか。お食事でも行きましょう。何を食べたいですか」
「そうですね……では、サンドウィッチを」
「かしこまりました。では、とっておきのところに行きましょう」
瑠璃子は再び車に乗る。心地よい振動が瑠璃子を睡眠へと誘う。やがて瑠璃子は小さな寝息をたてて眠りに落ちていった。
「瑠璃子さん、瑠璃子さん」
優しく揺さぶられる。瑠璃子が目を覚ますと、そこには優しい顔をした正清の顔があった。瑠璃子は思わず正清を押し除ける。
「そんなに照れなくても……ほら着きましたよ」
そこは図書館の近くにある小さな煉瓦造り純喫茶であった。看板には『福島珈琲店』と書かれている。正清は清らかに微笑む。
「ここで、貴女のお父様と知り合いました。ここのコーヒーとサンドウィッチはとても美味しいのです」
瑠璃子と正清は腕を組み入る。小さな鈴が可愛らしい音を立てた。瑠璃子は席に案内されるととある人物の後ろ姿を見つけた。少し白髪の混ざった黒い髪、何かを一心不乱に書いている。それは恋しき渉だ。しかし、こんなところを見られたくはない。瑠璃子はデェトを断らなかった自分を恥じた。
「瑠璃子さん、あの男が気になりますか」
瑠璃子の考えを見破ったように正清は微笑む。
「いえ。全然」
「ふふ……強情なお方だ……。実は私が呼んだのです。石田さん」
その人物はすくっと立ち上がり、振り向いた。紛れもない。我らが石田渉だ。
「渉さん……」
「瑠璃子……さん」
一瞬だけ二人は見つめ合う。しかし渉は目線をすぐに逸らしてしまう。
「では、瑠璃子さん。本題に入りましょう。これを貴女に」
瑠璃子に差し出したもの、それは翡翠で出来た指輪だった。
「貴女に僕は結婚を申し込みに来ました。瑠璃子さん。石田さんではなく、私を選んでいただけませんか。貴女の目の前には二つの道がある。私と幸せになり何不自由なく暮らすか……それとも、そこの貧乏学者をとるか……です」
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