第16話 確保-午後三時-

 舗装されていない道をごとごとと自動車が通る。渉は迷っていた。徒歩で浅草から品川まで行くか、それとも営業許可番号のついた自動車を捕まえて品川まで送ってもらうかだ。東京での地感は一部しかない。その上、瑠璃子までいる。おそらく自分より体力の無い瑠璃子は歩くのは無理であろうと渉は考えた。と、すれば、自動車か。自動車は便利だが、いかんせん少しだけ高いとも思った。

 一方、瑠璃子は青い瞳を輝かせている。きっと東京に興味津々なのだろう。東京に着いて蕎麦を食べ、浅草では小指の先ほどの観光をした。彼女は初めての経験を沢山したのだ。それは楽しいに決まっていると、渉は思った。渉が思巡していると、小さな可愛らしい音が聞こえた。瑠璃子はお腹を抑えている。

「渉さん。私が口を挟むのは良く無いことだとおもいますが、申し訳ないのですが……その……お腹が空きました」

「そうですね。もう、お昼ですから。瑠璃子さん、もう少し我慢出来ますか」

「ええ。この後どうするのですか。やはり、品川へ向かうのですか」

「そうなんですが……イエ、ちょっとだけ寄り道して行こうかなって」

「寄り道ですか」

「ハイ、東京駅に寄って、駅舎を見ましょう。大正三年に出来たのですが、中々のハイカラな建物ですよ」

 渉は瑠璃子の心的負担をなるべく減らそうと思ったのだ。瑠璃子は小さく笑う。

「渉さん。こんなときだから、って思ってますね。私、大丈夫ですよ。寄り道なら強いて言えば貴方のご実家が見たいです」

「ウチですか……兄が家を継いでいるのですか、果たして……いまはどうしているのか……」

「ご無理なら、今度で構いません。そうまた今度……」

 瑠璃子は小さく渉の腕を掴む。おそらく、彼女も今後のことが不安なのだろう。

「今度、きちんと挨拶に行かないといけませんからね。兄にはまた連絡をいれておきます」

 小さく瑠璃子は「ハイ」と言った。瑠璃子の頭を渉はそっと撫でる。いつもならきちんと結えられている髪が、今日は簡易服に合わせて解かれていた。長い黒髪が絹のような手触りであった。

「もう、渉さん。私子供じゃないんですよ」

「エエ……。よく知ってますよ。さて、東京駅に向かいますか。瑠璃子さんは歩けますか。歩けないのなら自動車を拾いますが」

「歩きたいのは山々ですが、歩けないと思うので、自動車を捕まえていただいてもよろしいでしょうか」

「いいですよ。少しお待ちくださいね」

 自動車はすぐに捕まった。幸いなことに黒いカーテンがついており、渉は念には念を入れてカーテンを閉じた。暗い車内。誰も話さないまま自動車は滑るように東京駅に向かう。渉は懐中時計をちらりと確認する。もうすでに十分程経っている。そろそろ東京駅に着いてもよいはずだ。渉はちらりと外を覗き見る。もうすでに、東京駅のレンガ積みの豪奢な駅舎が見えている。そろそろ着くか、と渉は思った。

「お客さん、着きました……が後ろからつけてくる車がいますね……どうします……」

 無愛想な運転手が煙草を吸いながら言う。

「つけてくる車ですか……どんな車でしょう」

「黒いフォードですな……お客さんを見えないところでそっと下ろすもありですが……撒いて東京駅に車を寄せましょうか……」

「お願いします」

「あたしゃ、昔からこの車の最高速度に興味がありましてね……マァ少し揺れますがお客さん方お気をつけて……」

 煙草の煙が車内に充満する。すると車は急に速度を上げる。細い路地へと入っていたのかガリガリと何かにぶつかる音がする。

「チッ……奴さんやるじゃないの……」

 運転手はなおも速度を上げ路地を左右あちこちに逃げ回っているようだ。

「瑠璃子さん、しっかり捕まって」

 渉は頭を運転席にぶつけながら言った。十五分程危険な速度での運転は続いた。やがて完全に撒けたようで緩やかに速度が落ちていった。

「お客さん方、お代はいらねェ。何か事情があるのはさっきの車を見てて分かった……あいつらしつこかったからな……ホレ行きな……」

 戸を開けると新鮮な空気が広がっている。「ありがとうございます、運転手さん」

 瑠璃子が叫ぶように言うと、運転手は新しい煙草に火をつけて走り去っていった。

「サテ……東京駅に着いたはいいものの、お昼はどうしましょう。弁当でもよろしいですか」

「お弁当。いいですね、ぜひぜひ」

 東京駅には大勢の人がいる。これだけ人がいれば、おそらく探し出すのも容易ではないはずだ。渉は弁当を二枚購入した。そして切符を買うと東京駅に瑠璃子と共に入っていった。

 渉と瑠璃子は車内で弁当を食していた。弁当、と言っても握り飯二つと沢庵だが。これだけでもいれておかないと品川で何かあったときに対応できないと思ったのである。列車は品川へと向かっていく。痰壷がごとごとと揺れていた。

 十分程で品川駅に着く。瑠璃子の手を引き、品川駅を出る。そこにはよく見知った二人の人物がいた。藤堂と結城氏だ。藤堂は腫れた頬を摩り、至って残念そうな顔をしている。

「やぁ、石田くん。うちの家出娘を迎えに来たよ」

 渉は瑠璃子を引き寄せた。

「貴方と言えど、なりません。俺の愛する人を商売の道具にするなんて」

「違うよ、石田くん。娘を君より幸せに出来そうな相手を見つけたんだよ。さあ瑠璃子、帰ろう」

「嫌、嫌です。私、渉さんと一緒にいるって誓ったのです」

「我儘はいけない。瑠璃子や。さぁ、父と帰ろう」

「嫌です。私が渉さん以外を好きになると思いますか。お父様は言いました、私が渉さんを好きになるなら結婚をさせるって」

「石田くん以上にお前が好きになりそうな人を見つけたのだよ。わかった、瑠璃子。賭けをしよう。瑠璃子がその青年を気に入れば石田くんとの結婚は破談にする。お見合いをして、気に入らなかったなら石田くんとの結婚を認めよう。そうすれば、石田くんに酷いことはしない。むしろ秀臣の家庭教師としていつまでもお願いしたいところではあるからな」

 藤堂は頬は腫れており、スーツの裾は破けていた。瑠璃子は自然と西洋人形の顔に戻る。

「かしこまりました。お父様。それでは家に帰ります」

「なりません。なりません。瑠璃子さん」

 瑠璃子の顔に少しだけ表情が戻る。

「渉さん、少し待ってらして。私、絶対に貴方を選びますから」

「では瑠璃子、我が家に帰ろう。石田くんも藤堂さんも我が家に寄って行き給え。茶を馳走しよう」

 天に結城氏の笑う声が響いた。その日の空は雨上がりの空模様であった。

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