第14話 接吻―午前二時―

 午前二時。窓辺では時計が秒針をかちりかちりと鳴らしている。渉は緊張のあまり眠れなかった。何故なら、隣の布団には瑠璃子が寝転がっているのだ。渉は瑠璃子の方に身体を向ける。瑠璃子は布団を顔まで被って眠っているようだった。渉は少し、安心した。明日から長い日々が始まる。瑠璃子には少しでも眠って体力を回復させて欲しかったからだ。それにしても、窓の外がひどく明るい。渉は瑠璃子に気づかれないようにゆっくりと身体を起こすと、眼鏡をかけ、窓辺に近づいた。その光は街灯の光であった。ぼんやりとした光が市街地を包んでいる。渉がぽうっとそれを眺めていると、後ろから物音がした。

「眠れないのですか」

 瑠璃子の小さな声が聞こえた。彼女は布団を被ったままだ。

「エエ……。ちょっと」

「恥ずかしいのですか」

「エエ。愛おしい人が傍で眠っているものですから」

 布団の中から空咳が聞こえた。

「いつも思うのですが、渉さんはそんな恥ずかしいことをよく言えますね」

 瑠璃子は蒸し暑くなったのか、顔を布団から出した。街灯の光でぼんやりと照らされた顔は赤い。

「イヤァ……素直なだけです。それに感情は言葉に出さないと伝わりませんから」

「まぁ。やっぱり貴方は変わったお方ですね」

「よく、言われます」

「渉さん、そろそろ寝てください」

「そうですね」

 渉は眼鏡を外し、布団に寝転がる。眼鏡を外すと世界はぼやける。瑠璃子はそっと囁いた。

「渉さんが眼鏡を外してるのを見たのは初めてです」

「ハハ……恥ずかしいも何も顔の印象はそんなに変わらないでしょう」

「いえ、結構変わりますよ。眼鏡をかけていると、柔らかくて親しみやすい印象ですが、無いと無いで……その……」

 瑠璃子が言い籠る。渉は小さく笑った。

「俺はただのオジサンですからね。齢が丸わかりになってしまいますよ。」

「違います。ただのオジサンじゃないです。その……眼鏡を外していると……可愛らしいです……」

「ハハ……女性に可愛らしいと言われると……。複雑な気持ちです。瑠璃子さんには負けますよ」

 そっと瑠璃子の方に手を伸ばす。瑠璃子の布団からはみ出していた手にあたる。渉の心臓は急速に早鐘を鳴らし始めた。瑠璃子の顔は渉には見えないが、真っ赤であった。

「イヤ……失礼……」

「構いません。私の手、握っていただけますか」

 そっと渉は瑠璃子の手を触感を頼りに優しく握りしめる。

「瑠璃子さん、愛しています」

 渉はそっと呟く。その呟きは空気に溶けることなくしっかりと瑠璃子の耳に届く。

「ありがとうございます。ねぇ、渉さん」

「なんでしょう」

「抱いてください」

 今度は渉がむせる番であった。渉はまさかそう言われるとは思わなかったのである。それに渉は女性とそのようなことをしたことがない。何をどうすれば良いのかわからないのだ。街灯が優しく瑠璃子を照らしている。渉は思わず眼鏡を掛けた。瑠璃子は胸元をはだけさせていた。白磁のような滑らかな肌に、膨らみ掛けの初々しい果実が実っていた。

「お姉さまに伺ったのですが、農村部では子供ができればその方と結婚すると。ですから」

「それは……よくないです。あの、瑠璃子さん、そのようなことは……ソノ……とにかくなりません。そのような行為は愛がないと」

「渉さんのことを私は愛しておりますわ」

「とにかく、なりません。ここは人様のお宅ですし、明日にも差し障りがあります。それに、俺……エット……そのようなことはしたことがありませんし……アノ……そういうことは結婚してから……瑠璃子さんは俺のことを愛していると仰いましたが、結婚したいほどなのですか。生涯を供にしたいほどなのですか」

 渉の懸命な剣幕に瑠璃子は少し黙った。時計の音だけが部屋の中に響いている。渉は恥ずかしさのあまり、寝返りをした。羞恥のあまり、瑠璃子の顔を見られなかった。そっと瑠璃子が渉の布団の中に入ってくる。渉の心臓は最早、座礁した鯨のように爆発しそうであった。

「もちろんです。貴方が先に年老いていっても、貧しい生活でも、ずっとずっと愛することを誓います。ですから……本当は抱いて欲しいのですが……今日は接吻を……してください」

「瑠璃子さん……」

 その言葉に渉は眼鏡を外す。瑠璃子の方をむく、いつもならハッキリとは見える瑠璃子の顔が、輪郭がぼやけて見える。瑠璃子の頬を優しく摩る。瑠璃子がそれに応える。『いのち短し、恋せよ乙女』の文句を思い出す。 

 瑠璃子はこの瞬間、命を燃やし懸命に渉に恋をしている。渉はそれを充分に感じ取った。渉は顔を瑠璃子に近づける。ぼんやりとしていた瑠璃子が少しハッキリ見えてきた。瑠璃子の頬も真っ赤だ。柔らかい感触が唇に伝わる。それは短い、一瞬の接吻であった。

瑠璃子は満足気に笑う。

「ありがとう、渉さん。これからも、貴方の傍にずっと居ますわ」

「こちらこそ、ありがとうございます。俺も生涯をかけて愛し抜きます」


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