逃避行
第13話 家出ー午前零時ー
小西家に到着するとすぐにふみの父と母が駆け寄ってきた。ふみの母はガウンを瑠璃子にそっとかける。瑠璃子はふみの母に向かい、小さく会釈をした。ふみの母は愛子を慈しむように瑠璃子の肩をそっと抱いた。
関羽のような髭を蓄えたふみの父と宇喜多は渉とふみに歩み寄る。ふみの父はふみの頭をそっと撫でた。ふみはくすぐったそうな顔をしているが嫌がっている様子はまるでない。宇喜多は渉へ、一枚の写真と小さな手帳を渡す。渉がその写真を見ると、目鼻の整った男前の青年が一人写っていた。手は、椅子にやっていて、腰のあたりに椅子があることから足が長く、身長が高いことがわかる。渉は渡された手帳を数枚めくると同じ写真と名刺が貼ってあった。名刺には、『太陽合資会社、頭領、加藤正清』と書かれていた。
「石田さま、難敵のご様子。かのお方は帝国大学を出ていらっしゃる。太陽合資会社の若頭領で年は二十四。最近政財界にも出入りされている方ですぞ。性格も良く、誰もが好青年だと噂されてまする」
「ご苦労でしたね、宇喜多。さすがはうちの執事だわ」
そうふみは言うとふみの父と共に自宅に戻ろうと歩き出す。
「勿体なきお言葉。ささ、瑠璃子さまも石田さまもお宅に入りなされ。この翁がココアを入れて進ぜよう」
玄関を抜けて食堂に二人は招かれた。宇喜多が温かいココアを皆に出す。食堂では大きなガラスの電飾が煌めいている。瑠璃子はふみの父母にこれまでの経緯を話す。ふみの母は小さく「まぁ」と声を漏らし、その後未だかつて誰も聞いたことのない低い声で「何考えてんだ格下のくせに」と呟く。それを聞いたふみの父は怒れる婦人を宥め、ココアを一口すする。渉もそれにならい、ココアを飲んだ。温かく、甘くてほろ苦い。いまの気分に当てはまる飲み物だと渉は思った。
「それで、石田くん。石田くんはどうしたいんだい」
唐突にふみの父から話しかけられてびくりとする。渉は深く息を吸う。肺にいっぱい空気を溜め込んでからそれを吐き出すように発言する。
「瑠璃子さんを、誰の手にも渡したくないです。俺は瑠璃子さんと一緒にいたいです」
「よく言った、それでこそ男だ。それではこうしよう石田くん。娘と瑠璃子さんに国史をご教示願おう。その代わり、この一件は我が家に預からせてほしい」
「それでは、甚大な迷惑があなた方ご一家にかかります」
「瑠璃子さんはこの愚女の『妹』。助けるのに理由はいりますまい。それに……おっと客人か。宇喜多、出なさい」
ふみの父は何かの気配を感じとったように、宇喜多を外にやる。その直後であった。呼び鈴が大きな音を鳴らしたのである。五分ほど経ち、宇喜多が食堂に戻ってくる。
「旦那様、警察でございます」
「うむ、通せ」
「承知」
宇喜多は音もなく扉を開けた。扉の向こうには年老いた警官と背のかなり低い若い警官が立っていた。年老いた警官が重々しく口を開く。
「失礼、結城瑠璃子さんはこちらにいらっしゃるかな」
「そのような人物はおりはせぬ」
若い警官はポケットに手をやり、紙を取り出す。
「結城氏によると娘が家出をして『姉』の家に向かったと届出がなされています。特徴もそこにいらっしゃる娘さんとご一緒だ」
宇喜多は刺すような視線で二人組の警官を見る。
「そのような人物はおりはせぬ」
二人組は蛇に睨まれた蛙のようにすくみあがる。年老いた警官が息を大きく吐いた。
「大谷、ここにはいねぇみたいだな。」
「そうですね、池田さん。では失礼致します」
そういい警官二人は踵を返す。若い警官が一歩立ち止まり、最敬礼をする。
「ああ、そう。そういえば、明日から横浜全域で警官を動員して行方不明になった結城瑠璃子さんを探すそうです。お金持ちの言うことは怖いですなぁ。では、皆さん夜も遅いですし、外を歩く際にはお気をつけて」
微笑みながら若い警官は立ち去っていった。宇喜多はその様子を黙って見つめていた。
「石田くん、明日には山狩りがされるようだね。それではここも危ない」
「エエ……そうですね。俺の家も危ないと思います。このままだと連れ戻されて見つかってしまいますので、東京に行こうかと思います」
「よろしい、もう今日の鉄道は無い……明日駅まで送って行こう。宇喜多、石田くんに例のものを」
宇喜多は10円を石田に手渡した。石田は目を丸くする。
「こんなお金……一体……」
「ナニ、一ヶ月分の君の給料を先払いしただけだよ。さぁ、今日は二人とも寝なさい。明日から結城氏を説得してみせよう」
「どれだけのことがあって、あなた方はそんなに良くしてくださるのですか」
渉は困惑していた。彼の生まれ育った環境では、こんな親切な施しを受けることはなかったからだ。
「どうしてってそれは瑠璃子さんがふみのお友達だし、石田さんは主人がお熱だからよ。さぁ、お二人とも。寝室へご案内致しますわ。瑠璃子さん、明日お洋服をお貸しいたしますわ」
瑠璃子と渉はそっと手と手を繋いだ。まるで、離れないことを誓うように。大きなガラスの電飾がきらきらと光を反射していた。
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