第8話 瑠璃子のお返し(下)

 結城氏所有の黒い車に揺られ、二人は伊勢佐木へと向かう。渉は自動車に乗ったのは二度目である。一度目は寝ていて全く記憶になかった。ごとごとと揺れる中、瑠璃子は鞄から本を取り出す。

「渉さんにぜひ読んでほしくて……お姉さまからご紹介いただいた今人気の恋愛小説です。恋愛について私はよくわからないので勉強しようと思って……」

 それは淡い赤の装丁がなされた『片恋』という小説だった。渉はその小説を受け取りパラパラとめくる。本の一番最後には「松永」の印が押されている。おそらく松永という人が書いたのだろう。

「車の中で読むと酔ってしまいますよ。それは偉い人の二号さんに二号さんとは知らずに恋をしてしまった男の話です。恋とは心臓が高鳴り、その人にとても会いたくなるのですね」

「ヘエ……『花のかほりを胸の内に取り込むと、Kという女性を思ひ出す』か……ありがたくお借りいたします」

「私、春の風を感じると貴方が笑っているのを思い出しますわ」

 そう、瑠璃子は手を口元に当て軽やかに笑った。渉は思わず瑠璃子を見つめる。青い瑠璃色の瞳が見つめ返してくる。

「お嬢様、石田さま、伊勢佐木に着きましたぜ」

 呑気な車夫の声に二人はハッとし外へ出た。

 伊勢佐木は相変わらずの賑わいだ。渉はそっと瑠璃子の手を握る。瑠璃子の頬が急速に赤くなる。

「渉さん、はしたないです」

「いや、こうでもしないとはぐれちゃいそうですから。瑠璃子さんはお嫌ですか」

「嫌じゃないですけど……こちらのほうが……」

 そういうと、瑠璃子は渉の手をそっと離し、西洋の淑女のように渉の腕をとる。

「まるで俺が西洋の紳士のようですね。実態はただの貧乏人ですが」

「お母様とお父様がこうしていたの……ずっと憧れてて……その渉さんがお嫌でなければ……」

 瑠璃子は軽く俯く。白い肌が全体的に薄紅色になっている。渉は緊張しながら瑠璃子を引き寄せた。

「構いませんよ。さあ、どこに行きますか」

「では、どこか食べるところを探しましょう。渉さんは洋食はお好き?」

「食べたことがそもそもないですね」

 瑠璃子は真っ青な瞳を瞬かせた。

「まぁ。では、美味しいところに参りましょう。私に案内させてくださいませ」

 それは、渉が先日行った『宇都宮宝飾店』のすぐ近くにあるレンガ造りの小さな建物であった。ドアを開けると鈴の音が小く鳴り、ボーイが出てくる。二人は席に案内され、すぐに品書きを渡された。店内はいい匂いが充満しており、包丁の歯切れのよい音が聞こえてきていた。渉はぐるりと品書きを見つめる。カツレツ、クロケット、ライスカリー、ビーフシチュー……どれもこれも渉にとって縁の遠い食べ物だらけである。瑠璃子は鼻唄を奏でながら「オムライスにしようかしら」などと言っている。渉は値段によって食欲を失っていた。渉が外に蕎麦を食べに行っても、普段は五銭程で済む。しかし今回はその倍の倍はするのである。男として支払いはせねばなるまいし、食物は何を食べれば良いのか分からない。渉は困っていた。

「あら、渉さん。決まらないのですか」

 無邪気に瑠璃子は聞いてくる。その無邪気な視線が渉にとっては非常に痛いものであった。

「エエ……実はどれもこれも食べたことないので……何がいいのかわからないのです」

「では、ビーフシチューはいかが?牛肉の旨煮よ。普段栄養をとっていないんですもの。今日くらい精のつくものをお召しにならないと」

「……では、そうします。」

 瑠璃子は呼び鈴を鳴らしてボーイを呼ぶ。その様子を渉は見つめる。大丈夫、大丈夫だお金は持ってきたと、渉は計算をする。渉が水を一口飲むと、瑠璃子が微笑んだ。

「渉さん、緊張していらっしゃいますか」

「エエ。女性とお出かけするのも、洋食を食べるのも初めてですから」

「まあ。中々手慣れた感じでしたから、私てっきり……昔いい女性がいたのかと……」

「お恥ずかしい話、見合いのときにはああは言いましたが俺、女性と恋愛したことがないのです」

「あら。気づかなかったです。私も殿方とお出かけするのも、腕を組むのも初めてでした」

 瑠璃子はくしゃりと笑う。渉もつられて笑った。

「でも、十日間、連絡を一つも頂けなかったのはまだ許してないですから」

 いたずらっぽく言う瑠璃子。渉は飲もうとしていた水を置き、神妙な顔をする。

「本当にすいません」

「いいのです。その代わり、今度は渉さんがお好きなところに私を連れて行ってください」

 渉は胸を撫で下ろす。そのタイミングを見計らったように料理が出てきた。玉葱やニンジン、牛肉の入った茶色いスープだ。香りは嗅いだことの無い、西洋の匂いがする。一方瑠璃子の頼んだものは黄色く赤い何かがかかっているものだった。渉は一口、ビーフシチューを食べる。初めて食べる牛肉。噛みしめると肉がほどけ、旨味が出てくる。スープも牛肉の味が出ている。

「美味しいです。こんなに美味しいもの初めて食べました」

「あら、よかったです。こちらも一口お食べになりますか」

 そう言って瑠璃子は銀食器を黄色いものをすくう。中には赤いご飯が入っていた。

「あーん」

 瑠璃子はにこやかだ。渉は恥じらいながら口を開ける。銀食器の滑らかな質感が舌の上に乗る。米粒がホロホロと口の中で広がる。硬い黄色いものがいいアクセントになり、酸っぱくて甘い味が広がる。

「これは、なんですか」

「オムライスといいます。昔お母様がよく作ってくれました」

 二人は愉しげに会話を弾ませながら食事をする。食べ終わった頃、食後のコーヒーが出てきた。

「美味しかったですね。そうだ、渉さん。渉さんにお贈りするものがあります」

「なんでしょうか」

 瑠璃子はそっと箱を取り出した。綺麗な黒いビロード張りの箱だ。

「開けてみてください」

 そっと瑠璃子は微笑む。渉がその箱を開けると、中には銀で作られた時計が入っていた。渉の持つ時計とそっくりである。

「瑠璃子さん、これは……」

「我が家の家宝ですわ。父もこれを貴方に差し上げることに同意してくださいました」

「イヤ……でも家宝をいただくとは……」

「貴方は過去と共に歩む方です。新しい未来を歩むのならば私の家の歴史も一緒に持っていってくださいませんか」

 渉はその銀時計をそっと持ち上げ、表面の『恩賜』の文字をそっとなぞる。ひやりとした質感が渉の指に伝わった。

「よろしければ、いただきたく存じます。それで興味本位でお聞きして大変申し訳ございませんが謂れを教えていただけませんか」

「大切なことですから、しっかりとお伝えいたします……それは私のお爺様のもので……」

 コーヒーの湯気がゆらゆらとたなびいた。

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