お姉さまと恋

第9話 瑠璃子のお姉さま

 雨が降り始めた。もうすっかりじめじめと蒸し暑い時期になってしまった。瑠璃子と婚約してから約一ヵ月がたった。瑠璃子と色々なところに出かけたり芝居を観に行った、と渉はぼんやり考えながら自転車を押していた。

 瑠璃子はもうすぐ学校が終わる時間だった。たまたま渉は結城氏の邸宅に招かれていたのだが、結城氏より「娘に傘を届けて欲しい」と頼まれたのだ。日頃の恩人の願いの上婚約者のためと渉は快諾した。そこで女中から渡された赤い鶴の描かれた蛇目傘を持ち、結城邸を出たのである。結城邸から瑠璃子の通う女学校は歩いて十分程の距離にある。雨がしとしとと降る中、急勾配の坂を登り、女学校へと向かう。やがて瑠璃子の通う女学校と思わしき建物が見えてきた。それは白い木造造りで緑の屋根が特徴的な大きな建物である。渉は門番に声をかけた。

「すいません、結城瑠璃子さんは中にいらっしゃいますか」

 門番は渉のことをじろりと睨んだ。渉はその視線に臆せず微笑んでいる。

「私、石田渉と申します。結城瑠璃子さんの婚約者なのですが、本日雨が急に降り始めたので傘を届けにきた次第です」

「ウム……少し待ってください……」

 そう門番が言うと帳面を取り出した。

「ここに、名前と住所と目的をお書きください」

「ありがとう」

 渉は懐中から鉛筆を取り出し、さらさらと書いていく。すぐに書き終わると門番が門を開けた。

「校舎の中には入られぬよう。職員に声をかければ、目的の生徒は見つかると存じます」

 渉は礼をつげ敷地に一歩足を踏み入れた。そこは学校と言っても、自分の通ってきた学校とは違う、渉にとって緊張をする空間であった。校舎の昇降口のところに、瑠璃子ともう一人女子生徒がいた。二人はぴたりと身体をつけており、親密な雰囲気を醸し出していた。これが噂の『エス』というやつか、と渉は思った。渉は声をかけるのを躊躇う。何故なら二人の親密な空気に気圧されたのと二人の美しい姿に見惚れていたからである。ぽうっと眺めていると、瑠璃子が渉に気づいた。瑠璃子が小さく手を振る。渉はそれに応え、小さく歩き出す。もう一人の女子生徒は瑠璃子から身体を離した。

「瑠璃子さん、傘をお届けにあがりました。そちらの方は……」

「渉さん、ありがとうございます。こちらは私の『お姉さま』です」

「お姉さま?まさか坊ちゃん以外に俺が知らない姉弟がいたとは……」

 渉はおどけた仕草をとる。瑠璃子は手を口元にやり鮮やかに笑う。

「違います。実の姉妹ではありません。学園で姉妹の契りを結んだのです。お姉さま、こちらは渉さん。私の婚約者です」

 瑠璃子とは対照的な日本的美人な顔をした少女はじろりと渉の全身を眺める。品定めをするように渉を観察してから、整った唇を開いた。

「ご機嫌よう。私、小西ふみと申します」

 ふみと名乗る少女は袴の裾をちょこんと持ち上げ、首をかしげる。まるでドレスを着た華族のお姫様のような挨拶だ。瑠璃子は渉に耳打ちする。

「渉さん、私こんな見た目だから女学校の皆さんには一部の方を除いて避けられていました。でもふみお姉さまは違ったのです。避けるどころか積極的に私を守ってくださったんです」

「瑠璃子さんどうしたの、こそこそとして」

「いえ、なんでもありませんよ、お姉さま」

「ところで、瑠璃子。そのみすぼらしい男が婚約者なのですか。私に婚約したとは言ってましたが……まさかこの男がその婚約者だとは……貴女見る目がなくってよ」

 道端の塵のような見る目でふみは渉を一瞥する。みすぼらしいと言われ、渉は動揺を隠せない。当初から釣り合わないとは思っていた。しかしここまで瑠璃子の大切な人に貶されるとは思わなかったのである。渉は頭を困ったように二、三度掻いた。しかし、瑠璃子は非難の声を上げた。

「お姉さま。渉さんは私の婚約者です。渉さんは唯一、私が好きになりたいと思った男性です。お姉さまは見た目で人を判断される方だと思いませんでした。ひどい……ひどいですわ……お姉さま……」

 瑠璃子はひどく取り乱し、ついには大きな瞳を歪ませ、ぽろぽろと涙を零し始めた。渉とふみは慌ててハンカチを探す。先にハンカチに手をやったのはふみだった。ふみは瑠璃子に近づき、瑠璃子の顔を拭おうとする。瑠璃子は黙ってそれを受け入れる。

「ごめんなさい……私ったら、この女学校の生徒たちのようなことをしてしまいました……。石田さん、どうぞお許しを」

「構いません。俺、瑠璃子さんには釣り合わないことは自覚していますから」

 瑠璃子はふみの手を泣きながら強く掴む。

「渉さんも渉さんです。私が貴方がいいと言ったのに、どうしていつまでも一歩引かれているのですか。どうして釣り合わないとか、貧乏とか、そんなことを仰るのです。もう、いいです」

 今度は渉に怒りの矛先が向いたようだ。嵐のような感情に、思わずふみと渉は顔を見合わせる。校舎の昇降口で何人かの女学生達がひそひそとしながら、こちらを見ているのがふみの頭越しに分かる。

「瑠璃子さん……エットごめんなさい。俺、貴女に選ばれたって自信もっとつけますから……その……ご容赦ください」

「よくないです。よくないです。もういいです。お姉さま、帰りましょう。渉さん、傘、ありがとうございました」

 瑠璃子は渉から傘をひったくるとふみにそっと寄り添って歩き始める。しとしとと暖かい雨が降る中、渉は一人取り残された。

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