第7話 瑠璃子のお返し(中)

 雀が元気よく鳴いている。貧乏長屋では、直江の婆さんが日課の掃除をしていた。おもむろにからりと引き戸が開く音がする。婆さんが上をむくと、整った髪型をした渉が出てくるところであった。渉は階段を踏み外さないように、そろそろと降りていく。

「おはよう。大家さん。ちょっと郵便局へ行って参ります」

 渉は小脇に抱えた封筒を摩った。十日程前に渉は大学時代の恩師に連絡をとり、仕事をもらったのだ。その原稿が出来上がった。

「オヤ、あんた。十日間も籠もってそんな分厚いのを書いていたんかい。何はともあれ気をつけて行くんだよ」

 渉は颯爽と赤錆びた自転車に乗り、郵便局へと向かって行く。郵便局は渉の家のすぐ近くにある白い木造の大きな建物である。渉は小脇に抱えた原稿を大事に抱え、ぐいとペダルを踏み込む。カラカラと車輪が回る音が聞こえた。爽やかな春の空気が渉の身体を包み込む。渉は久々の外の空気に浮かれていた。しかし、その浮かれた雰囲気は部屋に帰ると一変した。自室になんと、瑠璃子がいたのである。瑠璃子は正座をしていて冷たい冬の空気感を醸し出していた。渉はおずおずと話しかける。

「オヤ……瑠璃子さん……。こんにちは。俺の家の場所知っていましたっけか……」

 振り向いた瑠璃子は顔を一瞬華やがせたが、また冷たい白磁の人形のような顔に戻る。

「父から聞きました。それより、十日も連絡もせずにどうしたのですか」

「原稿を書いてました……。すみません……」

「原稿?お仕事ですか」

「ハイ、そうです。調べ事とか色々していたり書き物をしてて……つい」

「では、私が送った電報は」

 渉は首を傾げた。電報なんて届いたか、十日間の記憶が全くない。渉は机の小脇をふと見る。あった。紛れもなく受け取っていた。渉は「失礼」と瑠璃子を横切り、机へと向かう。ボロボロの木の机には本が大量に積まれている。その上に小さく電報は置かれていた。中身を確認すると、それは瑠璃子からのものであった。しかも『デェト、トオカゴ、ゴゼンクジ、ワガヤニキタレ』と書いてある。渉は思わず青ざめた。

「……すいませんでした。本当に集中していて十日間程記憶が飛んでしまいました……」

 その姿に反省の意を汲み取ったのか、瑠璃子はほんの少しだけ陶磁器から人間に戻る。

「では、食事とか睡眠とかどうしていらっしゃったの」

「食事……は……記憶にないですが、察するに茶漬けを食べていたようで……ハイ」

「まあ。お茶漬けだけ」

「普段は茶漬けしか食べないので」

 瑠璃子はありえないものをみるように渉を一瞥した。

「ありえないです。そんな、栄養が偏ってしまいますよ」

「イヤ…これで九年間生きてましたから」

「そんなの、よくないです」

 本気で心配して怒っているようである。一回り歳の離れた女の子に怒られるとは、と渉は思わず苦笑いをする。

「それで瑠璃子さん。今日はデェト……ですよね。すみませんでした……」

 少しむすっとしながら唇を開く。

「良いのです。お仕事でお忙しかったことも分かりましたし、変に言い訳しなかったですし。では、気を取り直して伊勢佐木へ参りましょう」

「ここからですか。俺は自転車で行けますが、瑠璃子さんを歩かせるわけには」

「何を仰っているのです。車があるではありませんか」

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