第4話 結城邸にて

 春の朝は心なしか暖かい。渉は心地よい日差しの中目覚めた。普段は薄っぺらな畳の上で身体が痛いと思いながら伸びをするのだが、今朝は違う。まず、身体が痛くない。それに、雲の上にいるようにふわふわとしたものの上にいる感覚がする。渉が左右を見渡すと、そこは見知らぬ部屋だった。渉が戸惑いながら身を起こすと、規則正しいノック音がした。

「石田さま、失礼致します。旦那様がお呼びです。身支度を整えたら、このベルを鳴らしてくださいませ」

 真面目そうな引っ詰め髪の女中は渉のごつごつとした手に小さな呼び鈴を押し付けた。

「ハァ……身支度と言っても、俺急にこの家に来たので服とか全く持ってません」

「服ならその、行李の中に」

 そういうと、女中はくるりと踵を返し、部屋を出て行った。渉は部屋を見渡す。なかなか広い部屋で瀟洒なランプが天井にはつけられている。部屋の隅には渉が愛用している部屋の調度品とは似ても似つかない行李があった。渉は窓の外を見渡すと見たことのある美しい新緑に囲まれた庭園が広がっていた。

「参ったな……これ、結城の旦那様のお宅じゃないか」

 ぼやきながら行李の中を漁り、一番上等な服を探す。彼は貧乏故に服をそんなに持っていない。仕方なく、一番シワのないシャツに茶色いスラックスを履き、サスペンダーをした。着替えたので仕方なく、呼び鈴を軽く押した。甲高い音と共に女中が現れる。まるで部屋の前で待っていたかのようだ。

「それでは、ご案内致します」

 長く白い廊下を無駄口を叩くことなく、女中と渉は歩む。やがて大きな扉の前に着いた。大きな扉を女中は叩く。

「旦那様、お嬢様。石田さまをお連れしました」

「よし、入りなさい」

 女中は扉を開き、渉を部屋に招き入れた。部屋の中はとても広く、暖炉まである。真っ赤なソファに腰掛けているのは、この家の主人結城氏だ。その隣、椅子に姿勢を正し、頬を朱く染めながら本を読む娘がいる。言うまでもない、結城瑠璃子嬢だ。渉は困惑した。思い起こせば、昨日結城氏が突然自宅に来て酒を飲み、潰れたのである。そのあと、自分も寝ようと畳に寝転がったのは記憶にある。だが、そのあとからは記憶にない。

「目が覚めたかね」

「ハイ……あの察するに……ここは旦那様のご自宅だと思うのですが、私が何故ここに」

「どうせ、次の日来てもらう約束をしたのだから、帰るついでに一緒に来てもらおうと思ってな」

「ああ……ハイ……なるほど……」

「石田さん、よく眠れましたか?」

 瑠璃子は本から顔を上げ真っ直ぐに渉を見つめながら清らかな形の唇を開いた。渉はその視線を受け止めながら頭を掻いた。

「ええ。移動していることに気がつかないくらい、ぐっすり寝ていましたよ」

「まぁ」

 瑠璃子は小さな笑みをこぼす。弧を描いた形の良い唇、瑠璃色の瞳、白い肌。その笑みはまるで白磁で出来た西洋人形のようだった。

「なんだか、昨日のお見合いの席での質問を思い出しますね」

「そうですね……ハハ……昨日は俺、じゃない私がそう伺ったんですよね」

「ええ」

 2人の柔らかい雰囲気の中、おずおずと結城氏が声をかけた。その初々しい雰囲気になんだかむず痒くなってきたのである。

「アー、石田くん。その、少し2人で散歩でもしてきたらどうだね。婚約のことを話そうと思っていたのだがそれは後でも良いだろう」

 一番に反応したのは瑠璃子であった。

「そうですね、お父様。申し訳ございませんが石田さんと庭を散歩して参りますわ。石田さん、行きましょう。案内致しますわ」

「ええ……。それでは旦那様、失礼致します」

 瑠璃子は髪につけたリボンを揺らし、結城氏に向かい大きくお辞儀をした。渉は「失礼致します」と困ったように結城氏に会釈をし、瑠璃子の後についていく。2人は何も話すことなく、無言でただ白い廊下を歩く。渉は道中ゆらゆら揺れるランプの光を見て何を話そうかとひたすらに考えていた。

 きらきらと眩しい午前の日差しの中、さくりとした芝生の庭に2人は出る。

「お父様、今朝6時くらいに貴方をつれて帰ってきました」

「そうなんですか。全然気がつかなかったです。ところで、結城さんが私と婚約したいって……正気ですか?俺みたいなお金もない、変わり者の三十路の人間と……。貴女はまだまだ17歳でお若い。もっと歳の近い立派な青年がよろしいのではないのでしょうか。それに昨日のお話しだとお友達になるというお話しでしたし」

「また、『俺』って仰いましたね」

「ア……すみません……」

「良いのです。父にも同じようなことを言われました。私、言いましたよね、『あなたを好きになりたい』と。せっかくなら私は貴方がいいです。貴方はどうお思いなのですか」

「まだお互いをあまり知らないので、もっとお互いを知ってからの方がいいと思います。イヤ……貴女みたいなべっぴんさんが俺に興味を持ってくれるのはありがたいですよ。しかし、もう俺はオジサンです。それでもよろしいのですか」

「ええ。構いません。むしろこちらからお願いしたいです」

 心地よい風が2人の間に流れる。瑠璃子の長い髪がたなびいた。

「では、よろしくお願いします。結城さん」

「結城さんではなく、瑠璃子とお呼びください。私も渉さんとお呼びしますから」

「イヤ……年甲斐もなく……こっぱずかしいです……瑠璃子さん、俺は全力で貴女に好きになってもらえるようにします」

 渉は頬と耳を真っ赤に染めながら、瑠璃子の右手をとる。瑠璃子の白い肌にもほんの少し色が差していた。

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