婚約

第3話 渉の帰路



 昇りかけの半月をぼんやりと眺めながら渉は身の丈に合わない料亭から出た。彼は自分の部屋がある貧乏長屋への帰路を歩む。

 それにしても、綺麗な女の子だった、と渉は思う。日本人離れした青い瞳が黒く長い髪によく似合う、素敵な女の子であったと渉は思う。しかし同時に結城の旦那様に自分が当て馬に選ばれたことを悟っていた。貧乏な学者で三十路近く、変人で学だけはある。そんな男と結城嬢との化学反応で結城嬢が変わり、真っ当な青年と結婚させるつもりだということはわかり切っていたことだ。あの場では、自分は愛を説いたが、自分は家族以外を愛したことはない。女性に文を送ったことなどなければ、恋もしたことがない。そんな矛盾と決して選ばれぬ自身を彼は自嘲した。

 道中、中途半端に整えた髪に手ぐしを入れてあくびをする。こんなみっともない男、きっと結城の旦那様が許さないだろうし、彼女もああは言ってもきっと父親の言いつけを聞くだろう。薄らとした半月に彼女の幸せを祈った。

 歩くこと、45分。漸く彼の住まいが見えてきた。大家の直江の婆さんが長屋の前を掃き掃除していた。大家さんの姿を見ると亡き母を思い出し、安心する。大家さんが渉に気づき、顔を上げた。

「あら。おかえり。お見合いの首尾はどうだったの?漸くあんたに嫁が来るのかしら」

「残念だけど、来ないよ。お金持ちのお嬢さんの当て馬にされちまったよ」

「そりゃ、残念。茶漬け以外のものを食べるようになると思ったのに。あんたも若くないんだから、身体には気をつけな。それはそうとユウキ株式会社の社長さん?から電話があったよ」

 結城の旦那様が一体何の用だろう。どうせお見合いのお断りの電話だろうと渉は将棋の駒をうつように決めつけた。

「なんでも、あんたに会いたいってさ。6時に迎えに行くとさ」

「6時って……大家さん、もう少しじゃないかい」

「そうさね」

 渉と直江の婆さんはお互いに顔を見合わせた。直接来る展開かと、渉は若干落ち込んだ表情を浮かべている。しかし、それとは対象的に直江の婆さんは心なしか口元に笑みが浮かんでいるように渉には見えた。

 半月が空に昇りきる頃、貧乏長屋の前に漆黒の車が一台停まった。そこから出てきたのは結城瑠璃子の父親、結城の旦那様であった。結城は神妙な面持ちで貧乏長屋を見上げる。

 二階建てのボロボロの長屋。部材の一部が苔むし、階段は踏み外した痕がまだ残っている。そんな長屋の二階への階段をそろりそろりと上がっていく。踏み外した痕をそっと越えるとパキッと小さな木が裂ける音がした。二階へ登ると、手元にある小さな紙を見て、部屋を探す。目的の部屋はすぐ見つかった。結城は部屋を軽快な音を立てて叩いた。

「はぁい」

「石田くん、入ってもいいかな」

 一拍置いて「どうぞ」と小さな声が聞こえた。その声はとても沈んでいるように結城には聞こえた。

「石田くん失礼するよ。いや、今日はお疲れ様」

「イエ……お気になさらず……。旦那様、お茶でもいかがですか」

「いや、結構。今日はこれを持ってきたんだ。電気ブラン。君もいけるクチだろう」

「エッ……電気ブランですか……あの薬っぽさが堪らないんですよね。湯呑みでよければ二つありますので」

 結城は黙々と湯呑みに電気ブランを注ぐ。その様子を眉を潜めながら渉は見ていた。

「それでは、乾杯」

 陶器同士が軽くぶつかり、甲高い音がした。結城は一気にぐいっと電気ブランを飲み干した。

「旦那様、電気ブランをそんなふうに呑んだらいけないですよ。すぐ酔っ払ってしまいます」

「いいのだ。今日は酔いたい気分なんだ。ほら、石田くんカラだ。注いでくれ」

「はぁ……」

 渉は飲み過ぎの恐ろしさをよく知っている。故にお猪口分くらい注ごうとするが「皆まで注げ」との重苦しい一言に仕方なく湯呑みいっぱいに注いだ。それをまた一気に飲み干す。

「石田くん、率直に聞こうと思う。うちの娘をどう思うかい」

「ええ……。綺麗なお嬢様だと思いました……。瑠璃色の瞳が美しい、綺麗で芯の通ったお嬢様ですね。旦那様もさぞご自慢なのでしょう」

「うむ。その通りだ。今日のお見合いは君はどう思った」

「どうって」

「マァ……はっきり言え」

「正直、お断りされると思っています。自分は収入があまりなく、その上変人と呼ばれる男ですから。旦那様のお気に召すような男でもないと……しかし……お嬢様に『好きになりたい』と言われたのは男として嬉しかったです」

「その反対だとしたら?」

 結城は大きなゲップをする。顔がすでに真っ赤だ。あれほどの量をがぶ飲みしたら当然であろう。思わず渉は「は?」の一言で返してしまう。

「ユウキ株式会社の令嬢、結城瑠璃子が君と婚約したいと言っていたら?」

「イヤ……身に不釣り合いだと……自分はもう三十路で貧乏ですし……それにお友達からと仰っていましたが」

「それでもだ。石田くん、瑠璃子と婚約をしてくれないか。君が瑠璃子がイヤならば破談にしてくれて構わない」

「ちょっと待ってくださいよ、旦那様。俺のところに来るお嬢様が可哀想だ。それに恥ずかしい話、女性と……そのような……恋愛などしたことは……」

「瑠璃子が君が良いと言っているんだ。はっきり言おう。私も君は瑠璃子に、我が家に、そぐわないと思っている。しかし個人的にはとても気に入っている。いくらでも応援してやりたいと思っている。それでも瑠璃子は君を『好きになりたい』と言っているんだ。頼む。この通りだ。娘の気持ちを大事にしたい」

「エッと……そのような大事なことはご本人とお話ししないと」

「だから、本人がいいと言っているのだ」

「ええ……まぁそうですけど」

「婚約をして瑠璃子の気持ちを満足させてやってくれ……きみの……気持ちを……聞かせて………く……れ……」

「率直に言うと嬉しいですが、何度も申すように身の丈に合わない……と思いますが」

「じゃあ……こ……んや……く……成立だ……明日、瑠璃子に会いに……うち……にきたま……え……」

 そう言うと、その場で本が落ちるようにばたりと結城は倒れ込んだ。明らかに酒がまわったのだろう。渉は困ったように結城にそっと煎餅布団を掛けた。

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