贈り物

第5話 贈り物

 庭から戻り、瑠璃子が部屋に本を置きに行った。結城氏と2人きりになった。2人は大広間でコーヒーを飲んでいた。結城氏が軽い調子で渉の肩を叩く。

「石田くん、瑠璃子との婚約を了承してくれてありがとう。まだ結納とかの儀式については考えていないけれど、私が結婚したのはほんの20年前だが……亡き妻と結婚の約束をしたときに指輪を贈ったんだ。君にもぜひ瑠璃子に何か贈り物をしてやってほしいな。勿論、資金が無いことは承知している。お金のかからないものでも君が真心を込めて贈ったものなら、瑠璃子も喜ぶだろう。どうか、よろしく頼むよ」

 結城氏からそう告げられたのである。渉には資金というものは全く無かった。しかし、頼まれた以上、贈り物をせねばなるまい、と渉は思った。困り果てた渉は屋敷からの帰り際に瑠璃子に尋ねてみた。

「瑠璃子さん、そういえば、ご趣味はなんでしょうか。好きなものとかありますか」

「まぁ、渉さん。いきなりどうしたのですか。好きなもの……趣味……綺麗な石とか、本でしょうか。その石を磨いたり、眺めたりすると光が反射してとても綺麗で……。渉さん、それが何か」

「いえ、べつに。ハハ……それではまたお会い致しましょう」

 瑠璃子のいう石とは、宝石であると渉にはすぐ分かった。宝石や指輪は渉には無縁の世界であった。そこで、まず値段を調べようと考えた渉は横浜の商業地へ行くことにしたのである。

 伊勢佐木町は渉が住む横浜の片田舎や瑠璃子の住む山手と違いとても賑やかだ。渉は人混みの中目的のものを探すべく、肩で風をきり歩いていく。伊勢佐木町にはたくさんの人やものがある。渉が好きそうな古書店もあれば、呉服屋、舶来品店、さらには劇場まである。どこもかしこも人だらけであった。

 15分程歩いたところで渉は『宇都宮宝飾店』という看板を見つけた。渉はちらりと店内を見て入るのを躊躇った。まず、豪奢な格好をした女性が多い。皆一様に着物も良さそうな生地を使っている。渉は困惑のあまり、髪に手ぐしを入れる。店の女性が渉に気が付き、にこやかに話しかける。

「マァ、お兄さんこんにちは。いい天気ですこと。お店の先でこっちを見てらしたわね。サァサァ中にお入りなさい」

「イェ……あの……婚約者に指輪を贈りたくて……その……値段だけが知りたいのです」

「じゃあ、婚約者さんのことを私に教えてくださいね。良いものを一緒に見繕いますから」

 背中を店員に押されて渉は宝飾店に入る。ガラスのケースの中には40円やら82円など渉の月収の何倍もするようなものが並んでいた。その価格設定に渉の背筋が凍る。そのようなことを知らない職業婦人はふんふんと鼻唄を奏で、指輪をいくつかショーケースこら取り出した。

「サテ、お客さん。婚約者さんに贈り物をなさるということで……今日が初めての贈り物ですか」

「はい……」

「なら、こちらの婚約指輪なんていかがかしら?白金の台座にダイアモンド。30円からありますわよ」

 30円。渉にとって30円は3か月分死ぬもの狂いで働いたら得られる金銭だ。渉が普段食している一か月分の米は3円90銭。それは渉にとって途方もない金額であった。

「ああ……分かりました……。お金を作ったら今度参りますので……」

 そう言い残し、渉はとぼとぼと伊勢佐木町を後にした。

「30円。どうしよう30円」

 そうボソボソ呟きながら歩いていると目の前にあった電柱に激突した。くらくらする頭を抱えてうずくまっていると手が差し伸べられた。なんて奇特な人だ、と渉は思う。その手を取り礼を告げようとすると、その人物は渉の友人の藤堂であった。藤堂は身の丈6尺程の大男で髪はきっちり整えてあり鼠色のスーツを品よく着こなしている。

「石田さんお元気ですか」

「ヤア。ご無沙汰してるね、蔵人くん」

「さっきから30円30円と念仏を唱えるように言ってましたが何かあったんですか」

「君、聞いてたのか」

「ええ。すれ違い様に耳に入ってきたものですから」

 藤堂は小さく笑う。そうだ、この男だ。この男になら相談できる。渉は閃いた。

「蔵人くん、ちょっと良いかい。俺、この度婚約をしたんだ」

「おや、それはおめでたいですね」

「で、蔵人くん。それで相談なんだが、婚約者にものを贈りたいんだ。贈り物って何かいいものあるかな。恥ずかしながら女性にものを贈るなんて初めてなんだ」

「ふぅん。そうですね。花とか……最近だと指輪とか流行ってるみたいですけど」

「指輪はいま見てきた。高かった」

「なるほど……30円とは指輪の値段だったんですね……その女性は何が好きなんですか」

「宝石と本。本は俺が読むようなものじゃないね」

「そうでしょうね。宝石が好きなら、石田さん。日本の宝石の原石をとりに行けば良いのではないですか」

「宝石……雲母とか翡翠とか……」

「さっすが学者先生。あとは頑張ってくださいね」

 藤堂は小さく笑うとにこやかに「失敬」と立ち去っていった。

 その晩、渉は旅支度をしていた。小さな鞄にわずかな金銭。自転車に荷物をくくりつけ、目的地へと自転車を走らせる。その目的地は糸魚川。古代の日本では翡翠を糸魚川でとり、交易していたとどこかの雑誌で読んだ記憶が渉にはあった。渉は三日三晩かけて自転車を走らせた。

 糸魚川は清流だ。さらさらと清い水が流れており、川に入ればすぐに足元が見える。渉は石を一つ一つ拾い、翡翠が入っているか見極め始めた。だんだんと足が冷たくなってくる。日が出る頃に着いたのに、もう昼である。道中老婆にもらった大きな握り飯を食べ、休憩をする。ザァザァと森が鳴く。その木々の合唱を聞きながら、渉は再び川に足を入れ、目的のものを探し始めた。

 2、3時間たった頃。渉は小振りな石を見つけた。全体的に蒼く、川の流れによって綺麗に丸くなっている綺麗な石だ。渉は満足のいく石を見つけたと自負した。渉はその石を鞄に入れ、再び自転車に跨った。

 一方その頃、1週間連絡が取れないことを心配した結城親子は捜索願を警察に出そうか話し合っていた。どちらかと言えば瑠璃子より結城氏の方が動揺をし、警察へ行くことをより強く考えていた。

 結城氏が我慢ならず、警察へ行こうと思ったその時、呼び鈴がなった。瑠璃子と結城氏はお互いに顔を見合わせた。思わず2人は玄関へ走り出す。玄関先には泥にまみれた渉が立っていた。頭をかきながら手には翡翠の原石を持っていた。

「渉さん、とっても心配したんですよ。今までどこに行かれてたのですか」

「瑠璃子さん。申し訳ないです。心配をおかけしました。瑠璃子さんに贈り物をしようと思って。瑠璃子さんは綺麗な石が好きだと伺いましたが生憎、俺にはお金がありません。でも瑠璃子さんの喜ぶ顔が見たくて。瑠璃子さんのことを思うと頑張れたのです。これ、翡翠の原石です。俺からの初めての贈り物です。よろしければどうぞ」

 そんなボロボロの渉に瑠璃子は抱きついた。力いっぱいの強い抱擁に渉は小さく呻く。

「馬鹿な人。でもとっても嬉しいわ。ありがとう……」

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