後編

「秋子ちゃんは何歳なの?」

 

 事が済み、私たちは体をベッドで休めながらボーっと話をしていた。


「28歳です。」

「俺の二つ下か。」


 30歳にもなってこんな小さなアパートに一人暮らしか……。自分を棚に上げ、失礼ながら私はそう思った。


「彼氏はいるの?」

「いませんよ。」

「そりゃそうか。」


 彼は苦笑いを浮かべた。

 私は仰向けの状態からうつぶせの状態へと体を起こした。部屋の様子をまじまじと見る。すると綺麗な蝶の標本が壁に飾られているのを見つけた。


「気になる?」


 彼も私と同じ体勢になり標本を見た。


「俺が集めたんだよ。」


 青の美しい蝶がピンで留められ見世物になっていた。


「殺したの?」


 私は彼に聞いた。


「そうだよ。傷をつけないように綺麗に殺さなきゃいけないから大変なんだよ。それに殺した後だってすごい手間がかかるんだ。」

「なんでそんなに手間をかけるの?」


 私にとっては至極普通な質問であったが、彼は答えるのに苦労していたようだった。


「綺麗だし好きだし愛があるからじゃないかな。」


 ようやく彼は答えをひねり出した。


「そっか。」


 私は体勢を崩し、彼の方へ体を向けて目をつぶった。彼もまた私の方へ体を向ける。


「じゃあもし私を愛したら、この蝶のように丁寧に私を殺してくれる?」


 彼は私の腰に手を当てて静かに私を見ていた。


「人間と蝶を一緒にしないでよ。」

「命の重さに差はないわ。」

「人間は蝶ほど美しくない。」


 確かに私は美しくなんかなかった。


「それにもし君を愛したら、俺は君を殺さないよ。」

「どうして?」

「俺は愛する人より早く死にたいんだ。愛する人がいない世界で生きるなんて苦行でしかない。」

 

――そうよね、そりゃそう。愛した人がいないこの世界に生きていてもしょうがないものね。


「私もそう思う。だから、殺してよ。」

「矛盾しているよ。」


 彼は笑った。

 そして疲労困憊の彼はそのまま目を閉じた。私も一緒に目を閉じる。明日も明後日も働いて酒を飲み、時として今日のような出会いがあって。こんな人生も悪くないかもと思っていたけれど、それにしても局部が痛すぎる。


 心もそれに共鳴してずきずき痛む。この世のどこにも居場所がないような気がして、私は一体何のために生まれてきたのだろうかなんて疑問が私の心に生まれた。消え去りたい。誰の前からも、どんな綺麗な思い出からも。

 私という存在を、まるで文字の羅列をBack spaceで消すかのように軽率に消し去りたい。異物がでかすぎて、要らぬ穴まで掘られた気分だ。

 



 目を開けると日の光がまぶしかった。手元のスマホを見ると朝の10時を示していた。とっくにもう遅刻の時刻だ。やってしまった、と思いながらも私の身体は少しもベッドから動かない。横を見ると彼の抜け殻がそこにはあった。起き上がり上着を着ると、ベッドの横にある机の上に置手紙がある。


『起こしたけれど起きませんでした。ゆっくり休んでください。冷蔵庫にあるものも好きに食べていいし、オレンジジュースも飲んでください。17時頃帰宅します。』

 

 私はその置手紙を机に戻しベッドルームを出た。出て右にある扉を開くとリビングがありその奥がキッチンだった。冷蔵庫から私はオレンジジュースを取り出し、オレンジジュースを飲んで改めて自分ののどが異様に乾いていたことを知った。


 けれどこのオレンジジュースは少しも美味しくなく水っぽい。どうやらこのオレンジジュースは水で薄めてある様だった。私は100%オレンジジュースしか好きじゃない、と私はオレンジジュースを冷蔵庫に戻した。そしてベッドルームに戻り服を着た。人の家であるにも関わらず、異様に図々しく居座れるのは何故だろう。体の関係があれば何をしてもいいとでも私は思っているのだろうか。

 

 ふぅっとため息をついてベッドに腰かけると、壁に掛けられた蝶に目が留まる。よく見ると青い羽根にきらきらとラメが入っていて、人工物のような気もするが綺麗だった。


「君は美しいから、そんなに綺麗に死ねて、死後も綺麗な姿でいられるんだね。」

 

 私は自分の容姿が好きではないが、他人からはそこそこ褒められる。中の上ぐらいの顔面偏差値なのだと思う。だからきっと昨日だって彼に声を掛けられたのだろう。  

 

 スマホが音を立てた。同僚の心配の連絡だったが興味もなく、私は既読もつけずスマホを机の上に置いた。ぼーっと蝶を眺めているとぐぅと腹が鳴り、私はおなかを摩った。空腹感を感じたが、さすがに人の家の冷蔵庫を漁る勇気はない。


「帰るか。」


 私は荷物をまとめて部屋を出た。鍵を開けっぱなしで家を出るのは申し訳ないが、オートロックのアパートなので大丈夫だろう、というてきとうな言い訳をして、そのまま家を出た。

 

 今日は春らしくだいぶ暖かい。きっと花粉も多く飛んでいるのだろう、花粉症ではない私にはてんでわからないが。


 ファミリーレストランを見つけ入店しコーンスープとサラダを頼んだ私は、注文が済んだ後になって初めて財布を見た。金が盗まれているかもしれない、と少し焦って財布を見たがきっちりと千円札が四枚、一万円札が一枚入っていて、彼がどうやら悪人ではないことを知った。


 ほっとして財布をしまおうと財布を傾けるとカードが数枚落ちてしまった。どこかの服屋のメンバーズカードと保険証が落ちた。


 『近藤秋子』と書かれた保険証は本人と記載されている。カードを財布に仕舞い財布をバックに入れると、タイミングよく料理が運ばれてきた。暖かいスープを口に運んで飲み込むと、体が久しぶりに温まった気になった。性欲、睡眠欲、食欲を見たし幸福感を得る自分は単純な思考を持つ人間だ。

 

 久しぶりの人との交わりに、何かを得られたかと聞かれれば答えはノー。所詮人間は欲求さえ満たされれば誰が夜の相手だろうと関係ない、そんな事実を知ったまでだ。


 心に気泡のような穴が出来たような気がするが、遥か昔に負った喪失感に比べれば大分ましである。おかげで綺麗で羨ましい蝶を見ることが出来たのだから、一晩の戯れも悪くない。

 

 スマホを取り出し記憶を元に調べると、男性の家で見た蝶が「ユーゲニアモルフォ」という名前であることを知った。

 

 スープを飲み終え満腹感を得ると私はスプーンを置き、ため息をついて窓の外を見る。

 

 一匹の何の変哲もない蝶が外を飛んでいた。あれは一体、なんていう蝶だったかな。そしてすぐさまモンシロチョウという名前を思い出す。

 

 そんな無意識に生き物の名前を思索する自分の思考に気が付いたのち、私は昨日の彼の名前すら知らないことに、ようやく気が付いたのだった。

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