中編
「お名前は?」
私たちを通り越す生暖かい風が、春の匂いを運んできていた。
「齋藤秋子です。」
「秋生まれなの?」
「いいえ。夏です。」
ははっと男性は笑った。
「好きなのは春です。」
「俺も好き。」
ピンクの花びらが地面に落ちて少し黒ずんでいた。きっとたくさんの人に踏まれたのだろう。躊躇なく踏まれている間、花びらたちは惜しげもなく咲き誇っていた期間を懐かしく思うのだろうか。
「じゃあ冬は?」
男性はわくわくした表情を浮かべて聞いた。寒くて薄気味の悪い、冬。嫌いで嫌いで仕方ない。思い返すだけで死の匂いが漂い全身に鳥肌が立つ。
「大嫌いよ。」
「なぜ?」
――なぜ?どうやって好きになれっていうのよ。
「乾燥するじゃない。」
――冷たい現実に打ちひしがれて、心も体もカラカラになってしまう。
はぁ、とあまり納得していない反応をしたその男性はもうその話題には関心がなさそうだった。
しばらく沈黙が起き、私はもう何も考えずに歩いた。考えてしまえば今のこの状況すら阿保らしく思い、女という身分を放棄してしまいそうだった。
「そろそろ着くよ。」
けれど、何で私は見ず知らずの男性と手をつないで見ず知らずの男性の家に上がり込もうとしているのだろう、なんてやはり考えてしまいそうになったが、20代の女の一晩、今日みたいな日があってもいいだろうという思考にすぐに切り替えた。
「何か飲む?」
男性はぎらぎらと光っているコンビニの方を見ながら私に聞いた。
「オレンジジュースが飲みたいな。」
「酒は?」
「やめとく。」
「そっか。」
男性はコンビニ向かい、私は何となく男性から手を離し男性の後をついていく。かごにオレンジジュースと缶チューハイを数本入れて、おつまみを数種類選んだ。
「嫌いなものある?」
私は首を横に振った。そのまま男性はレジに並び、会計を済ませた。私はコンビニの外に出て財布の中身を見た。千円札が五枚、一万円札が一枚入っていた。
コンビニから出てきた男性に私は千円札を渡した。
「いいよ、要らない。」
「ううん、受け取って。」
私は一向にお金を財布の中に納めず男性の前に差し出し続けた。男性はお金を受け取りポケットに入れた。そして私のいない方の手に荷物を移動して、私の手を握って歩き出した。
四階まであるこじんまりとしたアパートが男性の住む家だった。アパートの中に入ると男性は201号室と書かれたポストを開け郵便物を取り出していた。
ほとんどが広告で要らないものばかりだったのだろう。一つため息をつき男性はてきとうにその郵便物を扱ってまた歩き始めた。エレベーターのボタンを押してエレベーターを待つ。その間も男性は私の手を離さなかった。
エレベーターが到着し彼に引きつられ私はエレベーターに乗った。二階まで上がりエレベーターを降りるときも彼は私を引っ張った。先に女性を乗せようとか下ろそうとかそういった考慮は、頭の中にまるっきりないらしい。
201号室の前について男性はリュックからカギを取り出して部屋の鍵を開けた。扉を開いて私を入るよう促す。私はお邪魔します、と小さく述べて部屋に入った。鼻腔に通る匂いが私に若干の抵抗を与える。
玄関を通り靴を脱いでいると男性も私の後ろで靴を脱いでいた。スニーカーを履いている彼とは違い、私の靴はファスナー付きのブーツで脱ぐのに少し時間がかかった。彼が私を追い越し私の前に立つ。私は靴をやっと脱ぎ顔を上げると、私のことをまじまじと見る男性と目が合った。
その眼差しは初めて彼と出会った時とは少し異なるものだった。私はかがんでいた体勢を正す。それと同時に男性の手が私の肩に届いた。そのまま私の背中まで彼の手は届き、私と彼の距離は0センチになった。けれど密着する私たちの狭間には空間が所々にあった。
幸せだった頃私は、好きな人とするセックスはパズル、好きでもない人とするセックスは異物混入、そんな風に豪語していた気がする。でももし、好きな人とパズルのピースが合わなかったらどうすればいいのだろう。こんな風に隙間だらけで少しも抱き合っている感覚がなく、私たちの間に風が吹いて心のどこかに自制をさせる堤防のような高い岩があって。
私という人間はこの人をまったくもって受け付けない。よかった、この人を好きじゃなくて。好きになってしまったら、私はこのセックスを無理やりにでもパズルにして、自分の中で彼に合うピースを探さなければならない。
そんなの面倒だ。彼を私の人生の異物にしてしまえば、このセックスはただ快楽に溺れればいいものになる。私はいつの間にか途中まで外されていた上着のボタンをすべて外し脱いだ。彼も自分の上着をすぐに脱いで私の口に噛みつくようなキスをする。随分と寒々しいセックスだな、そんな風に思い私は少し肩を震わせた。
「寒い?」
その問いに私がうなずくと彼は私の腕を引きベッドルームへと誘導した。ベッドに私を押し倒すと彼は覆いかぶさり、その上から毛布をかぶった。
「あったかくなった?」
どうせこの後体は火照るはずなのに、なんでこんな無意味なことを。
「うん、ありがとう。」
そういえば私は好きじゃない人とのセックスを知らない。もしかしたら、好きじゃない人とのセックスは体が火照らないかもしれない。だから彼は毛布を掛けてくれたのかな、抱きしめられた彼の腕の中でそんなことを思った。
彼の心臓は確かに動いている。少しだけ気が遠くなってきた。夢見心地で誰かに体を弄ばれるなかでも、私はやはり虚無感を捨てられなかった。いくらでも好きにしてくれ、適当に反応はしてあげるから。かすかに見える彼のつむじを撫でながらそう思った。
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