フィアンセ
狐火
前編
心の底から好きだった曲を目覚まし時計の音にしていたら、その曲を聴くたびに今日も又生きなければいけないのだという得体のしれない、知りたくもない虚無感が心に沸くようになってしまった。
前まではその曲を聴くだけで目の前が明るくなり、どんな出来事もロマンティックに演出されてこの世の中がやけに易しい世界に見えていた。けれど今はもう、私の世界には色すらない、ただあるのは無。愛のない世界。
私は何でこの世に生を受けてしまったのだろう。こんなにこの世がつまらないものだと赤ちゃんの時に知っていたら私は自分でへその緒を引きちぎっていた。
他者からの愛や自殺への恐怖感を知ってしまった私には自制心というものが心の根底に根を張り、言い訳という肥料ですくすくと成長し随分と立派なものになった。
いい加減死んでしまおうかと意気込んでも、そこら辺の大してきれいでもない花ですら自殺をやめる要因になってしまう。いっそのこと、だれか私を殺してくれないか。そう求めても与えられず、探しても見つからず、また暗闇を彷徨って酒に飲まれて、気が付けば太陽が私を照らし始めて。
何も楽しくない人生、はあ、とため息をつけば逃げていくのは人間だけ。もう私から逃げる幸せなんぞ存在していない。
「ここがどこだか、わかります?」
いつも通勤で使っている電車で私は帰っていたはずだった。声をかけられてあたりを見渡すと私はとある繁華街にいた。どうやら私は酔いつぶれてこんな知らないところまで歩いてきたらしい。私に声をかけてきた人は私より少し年上の男性で表向きは優しそうだった。
かがんで声をかけてきたその男性に手を差し伸べられて、私は動揺しながらもその手を取った。男性の手はひんやりとしていた。居酒屋の呼び込みかな?と私は思ったがこんな酔いつぶれている私に声をかける居酒屋の呼び込みはいないか、と自分の考えを蹴った。酔いがさめた後特有の頭痛があった。
立ち上がると血の気が引いた。私は自分の額を抑える。脳みそが自発的に壊れるかのように、頭がガンガンと痛んだ。
「大丈夫ですか?」
心配そうに男性は私の顔を覗き込んだ。さきほどまでは見えなかったが、よく見るとなかなかの男前であった。見た目に釣られて相手に好感を持ってしまうのは人間の性だと思う。私は既にその男性を気に入ってしまった。
「ええ。酔っぱらってこんなところで寝てしまったらしいです。お恥ずかしい。」
私は恥ずかしさを隠すために男性から目線をそらして言った。
「酔い覚ましに何か買ってきましょうか?」
「いえ、大丈夫です。もう帰りますから。」
「そうですか。」
私は自分のスマホを取り出し時間を見た。とっくにもう終電はない時間だった。
私は一つため息をついた。明日だって仕事なのに、どうして私はこんな月曜日の週初めに飲みに行ったりしたのだろう。酔う前の記憶がまったくない。
「大丈夫ですか?」
私の自分を責める怪訝な表情を見て男性はもう一度聞いた。
「終電がもうないんです。明日も仕事だっていうのに。ここってどこですか?」
「新大久保ですよ。あなたのような女性がのうのうと寝ていていい場所じゃない。」
はぁ、と私はため息をついた。新大久保は私の家までかなりの距離だ。タクシー代が高くつく。家に帰るのも面倒くさい。けれどここらへんでホテルを探すのも面倒だ。どうしたもんかな、と私は首をひねった。その拍子に首の骨が鳴る。ピキッと体に痛みが走り私は自分の首を摩った。
「俺の家きます?」
男性が何の躊躇もなく私に聞いた。首に気を取れていた私の集中力は途切れ、一気に心に燃え上がる炎のような熱いものが現れる。見かけによらず遊び人なのだな、と冷静を装う私は思ったが、それと同時に久しぶりに感じる方面の羞恥に体が火照った。
いや、そんな辱めを受ける出来事なんか起きっこない。そう私は自惚れる自分に言い聞かせた。男と女の駆け引きなんぞとっくの昔に経験済みだ。女はひたすらにとぼけ続け、男は上手に誘導するのが正解だ。今はまさにそんな正解を男性から提示されているのだろう。仮にそんな辱めを受ける出来事が起きなくても私にはなにも不利益はない。
「すぐそこだし、風呂も食事も好きなだけどうぞ。」
男性は私の様子をただじっと見ていた。私は自分の首に片手を置いて、チラチラと男性を見た。
「家、何処なんですか?」
私のその言葉で男性は私に手を伸ばした。その手は私の手に重なる。
「行きましょう。」
強く握る暖かさに少しの罪悪感と懐かしさと人間としての安心を同時に感じ、自分の唾を飲み込むのすら苦しかった。男性の誘導に私はまんまと乗っかり私たちは5分ほど歩いた。
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