大切な鍵

@31072ma

大切な鍵

 私は、鍵です。もう使われなくなった鍵です。私の持ち主の青年は、生まれ育った家からは引っ越してしまいました。私の役割は無くなりましたが、それでも寂しくはありません。なぜなら彼は、私を新しい鍵と一緒にポケットに入れて、また外へ連れて行ってくれたからです。

 私は、彼が今よりもっと小さい頃から見守っています。時にランドセルの横に付けられ、時に首から下げられ、時に鈴を付けられ、時にキーボルダーを付けて、また別のキーホルダーに付け替えて。何度かの別れもありましたが、その数だけ出会いもありました。今は新しい家の鍵と狐のキーホルダーが一緒です。新しい出会いがあるときには必ず、私は彼の幼い頃の話をします。私はいつ捨てられるのかもわからないのですから、次に長く彼を見守るのは、君の番かもしれないのですよ、と。


 彼は昔、いじめられていました。私は、見守ることしかできませんでした。

「そこの犬さん、この子を助けてくださいませんか」

「そこの猫さん、この子の友達になって上げてくださいませんか」

「そこの狐さん、この子を遠くからでも良いので、みつめてあげてくれませんか」

「そこの柳さん、この子のお話をどうか、聞いてあげてくださいませんか」

 残念ながら私の声は、同じ金属の輪っかに通されたモノにしか聞こえません。それでも強く強く願い、声を出し続けました。

 私の願いが通じたのかは分かりません。彼は家の近くにある柳さんのところへ遊びに行くようになりました。彼は悲しいことがあると、柳さんにそれを話すようになりました。でもそれは、長くは続きませんでした。彼は、悲しいお話ばかりでは柳さんが可哀想だと思ったのです。自分も柳さんをいじめているのではないかと、そう考えたのでしょう。気づけば学校から帰る度に、

「今日はまた嫌なことがあったけど、テストで満点取ったから全然気にならないんだ」

「今日は学校では仲間外れにされたけど、塾ではみんな優しいから平気なんだ」

 そんな一日一言の会話が続きました。

 彼は中学生になりました。私を握る手が大きくなっていくと、柳さんにお話しすることも少なくなりました。それは柳さんが嫌いになった訳ではありません。楽しいことが増えて、いじめられることもなくなり、悲しいことを話す必要が無くなったのです。

 でもある日を境に、柳さんとお話しすることはなくなってしまいました。嵐の日の出来事です。その日は妙に彼はソワソワとしていました。ポケットの中の私を手の中でくるくる回したり、握ったり。授業の終わりを告げるチャイムが鳴りました。すぐに彼は、学校を出ました。彼は、私を強く握っていました。家に着く少し前まで来ました。突然、私を握る力が弱くなりました。彼の視線の先には、柳さんの横たわる姿があったのです。彼の髪からは雨粒が垂れていました。その何粒かが、私にも当たりました。雨とは思えないほど優しく、暖かい雨粒でした。彼は泣いていたのです。「ありがとうございました」彼は、心からの感謝を捧げて泣いていました。

 彼は高校生になりました。高校ではとても良いお友達に囲まれ、毎日が楽しそうでした。小学校から通っていた塾でアルバイトを始めました。後輩たちにも明るく、時には厳しく、でもやっぱり明るく笑顔で接していました。また彼に何か悲しいことがあっても、私は見守ることしかできません。だからこそ、学校でも塾でもずっと笑顔の彼を見て、私の気持ちはとても晴れやかでした。

 ですが、悲しいことは必ずやってきます。塾の先生に重たい病気が見つかってしまったのです。幸い早くに見つかり、しっかりと治療をすれば大事には至らないのですが、

「塾を今年いっぱいでやめることになるかもしれません」

 私は、塾に通って学んでいる生徒たちの不安を強く感じました。ですが彼は、誰よりも強く悲しんでいました。今の彼は、塾では先生です。明るく、時に厳しく、でもやっぱり明るく笑顔でいなければならないと思ったのでしょう。ですが、止まりませんでした。零れた大粒はポケットの中まで染みこみ、私を濡らしました。彼は恩師のため、大切な生徒たちのために働きました。塾の先生の体調は無事に回復しました。生徒達にとって彼は、至らぬ点の多い先生だったでしょう。でも確かに、卒業していった生徒達は笑顔でした。

 彼は短期大学を卒業し、とうとう社会人になりました。思い返せば長い時間、彼を見てきました。引っ越しの準備も、もちろん近くで見ていました。私の役目は終わりだと、あと少し、あのカレンダーの赤丸の日までだと、そう思っていました。とうとう出発の日、彼は玄関の鍵置き場に私を置いていこうとしました。彼は一度も私を鍵置き場に置いたことはありません。初めてこの場所に置かれる日が、彼がこの家から出ていく日とは、彼が帰ってくる日を待つのがより楽しみになる。そう考えていました。でも、私がその場所に置かれることはありませんでした。

「やっぱり鍵は持っていくよ」

 そう母親に伝え、ポケットに私を入れて外に連れ出してくれました。


 そして、それから半年ほど経ちました。どうやら私の新しい役割は、もう終わりのようです。今、彼は電話をしています。母親との電話です。聞こえてきたのは「引っ越し」と「返却」という言葉です。私は知っています。鍵は開ける戸がある家にあるべきもの。住む人が変われば、持ち主も変わります。もしかしたら処分されるのかもしれません。

 数日して、私は封筒の中に入れられました。小さな隙間から最後に見た彼の顔は、とても寂しそうでした。でもきっと大丈夫。もう見守る必要もないのかもしれない。それでも、新しい鍵が君を見守ってくれているから。

「ごめんね。今までありがとう。おやすみ」

 最後に聞くことができた彼の声は、とても暖かく私を包み込みました。

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