その③

 公園から直進して数十メートル先の信号のある角を曲がったすぐのところに、僕が彼女を連れていきたい店はある。

 住宅街の隅にひっそりと建つ小さなれん造りの店だ。

 赤い煙突に、暗闇に浮かぶオレンジ色の暖かな明かり。角を曲がる前からほんわりとスパイスの香りが漂っていて、これが道しるべとなって看板などなくても辿たどくことができる。

 ライトアップされた扉の横には黒板ボードが立てかけられ、『ヒマル屋 本日のオススメメニュー【わかどりとオクラの包み焼きチーズカレー】【ヒマル屋特製 スタミナカレー】、【夏バテ解消! 夏野菜爆盛りカレー】ライス大盛り、特盛り無料です!』と、チョークで書いてある。

 中に入ると濃厚なカレーの匂いと一緒に鈴の音が出迎えた。

「──いらっしゃいませ。二名様でしょうか。──あちらの奥のテーブル席へどうぞ」

 西洋のレトロな雰囲気が漂う内装にマッチした、ロングエプロンのウエイターさんは僕らを迎えるなり、わかっているといった笑みを見せて、奥の席へと案内してくれた。

 店内には他に四組ほどの客の姿が見える。店内に流れるゆったりとしたクラシックがそうさせているのか、夕飯時なのにどのテーブルも静かに談笑して、落ち着いた空気に満ちていた。

 頭上には天井の高さを強調した木組みと垂れ下がるシーリングファン。隅に設置されたほどよい明るさのフロアライトとテーブル上でほんのり揺れるキャンドルの炎、銀色のウォーターポット、壁にかけられた風景画、いつ来てもこの店は他にはない絶妙なセンスを感じる。

 駅前のファミレスじゃこうはいかない。このヒマル屋は隠れ家的な店で、僕のお気に入りの中の一つなのだけれど、正直あまり人に紹介したくない場所だった。

 クチコミすると噂が広まって、この静かな秘密の場所がなくなってしまいそうな気がして誰かに勧めるのが惜しかったのだ。

 だから見つけてから僕はいつもこっそり一人で通っていた、美鶴と付き合うまでは。

「いい香り」

 彼女とはこれまで何度も足を運んだ。店の人にも常連として顔を覚えられていて、聞かれるはずの禁煙か喫煙かの文言を省かれているのがその証拠だ。

 誘って以来、美鶴はここの味に魅了され、月に一、二度のペースで行きたがった。それほど気に入ったヒマル屋の味ならば、疲れきった彼女の心を癒してくれるかもしれない。

「こういうお店、嫌いじゃないですか?」

 しばらく内装の一つ一つに目を向けていた美鶴に水を注いだグラスを渡すと、彼女は少しだけうれしそうな表情で答えた。

「嫌いじゃないです。むしろ、こういう落ち着いた感じのお店、好きなので……」

 好感触のようだ。三年前と同じ反応にほっとする。

「なに食べましょうか」

 分厚いメニューを差し出して、僕は彼女が選ぶのを待つ。

「見ないんですか?」

「俺はもう決まってますので」

「え、メニューこんなにあるのに」

「見なくてもわかるんですよ」

「全部覚えてるんですか」

「紹介したら俺より気に入っちゃった人がいて。その付き添いみたいな感じで、今までだいぶ通ったので」

 だから店の雰囲気だけじゃなくて、味も気に入るって保証しますよ、と僕は彼女に見えるようにメニューの表紙をめくった。

『骨つきバターチキンカレー』、『シーフードカレーオムライス』、『モッツァレラチーズと粗きフランクのカレードリア』──といった具合にヒマル屋のメニューはどれもタイトルにひねりがある。

 僕はカレーに目がないというわけではないけれど、カレー好きにはたまらないというのは、眼前の彼女の表情を見れば納得できた。

 外の看板にあった本日のオススメも捨てがたいし、これも気になる。ああ、あれも、でもこっちもいい──と、そんなふうにメニュー表を静かに何度も読み返して迷っている彼女が、最終的になにをチョイスするか。僕にはだいたい予想できていた。

「決まった?」

 彼女の最終確認を聞き届け、僕は通りかかったウエイターさんを呼び止める。

「『きのこの和風こんにゃくカレー』を、ええと、並盛りで」

からさはどうなさいますか」

「あ、辛口で」

「『さんげんとんのカツカレー』の特盛りの、辛さは普通で」

「かしこまりました、少々お待ちくださいませ」と、ウエイターさんが去っていき、美鶴は僕のオーダーに意外そうな顔をしたままメニュー表をテーブル脇に戻した。

「特盛りって、結構食べられるんですね」

「そうだね、よく言われます」

「全然食べるように見えないです。細いから、むしろ少食かと思ってました」

 なつかしい彼女の台詞せりふに、僕も三年前にタイムスリップしたような感覚を覚えて、以前振った話題に繫げてみる。

「珍しいですよね。カレーに、こんにゃくって」

「ですよね。でも、私も自分でカレー作る時、こんにゃく入れるんですよ」

 具材としては変わり種のこんにゃくを入れたカレーが美鶴は大好きなのだ。

「小さく切って? 美味しいんですか?」

「美味しいですよ! あの、これ話すと大半の人が否定しますけど、本当ですよ。ヘルシーですし、一晩置くとこんにゃくがカレーを吸って、味がみて、ぷるぷるした食感が意外と合うんです!」

 美鶴はよさを知ってもらおうと評論家みたいに語る。

「じゃあ俺も今度試してみますね」

「そうしてください」

「よかったですね、こんにゃくのカレーがあって」

「はい。なんかここのお店、すごいわかってるなあって思いました」

 彼女はそこで、高まった熱を冷ますためグラスを傾け、「久しぶりにこんなにしゃべった」と小さく呟いた。

「そういえば。この前、ワンちゃん飼ってるって言ってましたよね」

「はい」

「どんなワンちゃんですか」

 珍しく彼女の方から歩み寄られて、僕は嬉しくなって携帯のスタンバイ画面を見せた。

「か、……可愛かわいい」

 ほわっと彼女の表情が膨らむ。

「ボーダーコリーですか?」

「って、言われるんですけど、雑種なんです」

 言った瞬間、彼女の口元がムッととがる。

 当たり前だけど。あ、美鶴だな、と思う。

「ミックスって言ってあげてください。雑種はなんか、……雑種はなんか」

 やっぱりこのワードだけは許せないみたいだ。

「女の子ですか?」

「それもよく言われるんですけど、オスです」

「へえぇ……可愛い。ふふっ」

「どうしたんですか?」

「本当に。お名前のとおり、『いぬかい』さんだなあって」

 写真と僕を見比べて、美鶴はクスクスッと笑った。

 まだ僕の素性について摑みきれていないだろうが、少しは警戒を解いてくれたらしい、公園の時より彼女がまとう雰囲気は幾分柔らかいものに変わっていた。

 会話がなくなっても流れ続けるクラシックは気まずさを与えず。彼女のお腹が二度目の限界を訴えたところで、僕たちのカレーは運ばれてきた。

 ふっくらとした白米と、ルーがからまったぶつ切りのエリンギとしめじ、彼女イチオシのこんにゃく、瓶詰めの福神漬け。全部をスプーンに乗せ、最初の一口をたんのうした彼女の喉からうっとりした声が漏れる。

「おっ……美味しい!」

 よかった。何回食べても、記憶がなくなってもこの反応が変わらないことに、僕はあんした。

 カレーを食べ進めながら、僕たちはキャンドルライトだけが照らす薄暗いテーブルで向かい合い、しばらく控えめな談笑を続ける。

「私、ここが地元なのに、こんな素敵なお店があるなんて知りませんでした。こんなに美味しいならもっとはやく知りたかったです」

「駅から離れていますから、地元でも知らない人はたくさんいると思いますよ」

「犬飼さんも、ここが地元なんですか」

「いえ……、ちょっと前に東京から引っ越してきたんです。前に住んでた場所よりも、この辺は美味しいお店がたくさんあるから、食べ歩きしてたら偶然見つけて」

「なるほど、そういうことですか」

「なんか住みやすいですよね、この街って」

「あ、わかります。駅近くにコンビニ四軒もありますし、スーパーも二軒あって、買い物に困らないですよね」

「バスに乗ってすぐホームセンターに行けるし」

「映画館も駅近くにありますしね」

「ビルばっかりじゃなくて、緑が多いのもいいですよね」

「……犬飼さんって、なんだか話しやすいですね」

 ふふっと表情がほころんだかと思えば、「そうじゃなかった」と、美鶴は自分を咎め出した。

「ごめんなさい。お礼を言うのが遅くて……。犬飼さん、私を元気づけてくれようとしてたんですよね、さっきもティッシュ、ありがとうございました。カレーも大好物なので嬉しいです」

 僕は首を横に振る。

「いいえ。つるさんにここのカレーを食べて元気になってほしかったので、俺こそ……あんまり親しくないくせに、いきなり食事に誘ってごめんなさい。ちょっと怖かったですよね」

「少し、びっくりはしました。でも今は来てよかったと思います、いいお店を紹介してもらって。……むしろ謝らなきゃならないのは、私の方ですよ」

 後頭部に手を当て表情を曇らせると、美鶴は再び「ごめんなさい」と口にした。

「この前も今日もすごく感じ悪かったですよね。私、ちょっと前に頭を強く打って、ここ三年間くらいのことをいろいろと忘れちゃったんです……。本当、こんな漫画みたいなことがあるんだって今でも信じられないけど、周りと今の自分の知っていることが大きく違いすぎて、最初はなにを忘れたのか実感が湧かなかったんですけど、最近になって思ってた以上に大切なものをたくさんなくしたんだなって気づいて……落ち着かなくて、あんなふうに」

 はあ……と震えたいきをつく。

「気づかないうちに、いろんな人に迷惑かけてる。はやく、はやく思い出さないと──」

 彼女はそこで後頭部を摑み、力を込める。

「あの時の私はきっと必死で、お店のためにも絶対になんとかしないと、と思ったはずなんです。でも結局それは、父や店長が言うように、無謀で迷惑なことだったんですよ……。なんでそれに気づけなかったんだろう、私、情けなくて……っ。だからせめて記憶だけでも取り戻さないとって思うのに、全然思い出せなくて。周囲の人に置いていかれているような気持ちだけが膨らんで、ますます動けなくなって……失敗ばかりが続いて……」

 どんなに彼女が苦悩を積み重ねているか。それだけで充分すぎるほど伝わった。

「もしかして、ごうとくなのにって思ってませんか……?」

 美鶴は答えない。きっとそうなのだろう。

「無謀でも、迷惑でもないですよ。剣城さんはちゃんと、正しいことをしたんだと思います。体を張って、怪我までして、それは誰にでもできることじゃないです。勇気があってすごいことだなって、俺は尊敬します。だから剣城さんももっと、自分を認めてあげてください」

「そんな……すごいことなんてないです」

「いいえ、現にあなたが動いたおかげで、助かった人がいるでしょう。あなたを否定しない人たちは、それを知っている。剣城さんが頑張っていること、ちゃんと見てる人は近くにいますよ。だからそんなに自分を責めて、縛らないで」

 そこで彼女がふわっと瞳を潤ませ、口元を震わせる。泣きたがっているんだと気づく。

 でも、テーブルの上に乗せた拳を解かないのはきっと〝他人〟の僕が目の前にいるからだ。

「泣きたい時は、我慢しない方がいいですよ。俺、こうしてますから」

 新しいポケットティッシュを差し出す。僕が首を横に向けて美鶴を視界から消すと、ほどなくして一人で留めておくには大きすぎる感情に吞まれて、彼女は声を殺しながら涙した。

「俺も、少しだけわかります」

 ひとしきり泣いて、彼女の呼吸が落ち着いてきた頃。僕はぽつりと打ち明けた。

「随分昔に、剣城さんと同じようなことがあったんです。頭を打ったってわけじゃないけど。数週間くらいの記憶を突然なくしちゃったことがあって」

 美鶴はふっと顔を上げる。

「どうしてですか」

「子供の頃に川で溺れて、気がついたら病院のベッドの上でした。親や病院の先生にいろいろと聞かれたけど、なんでそうなったのか全然思い出せなくって」

 そこに至るまでだけではなく、なぜかそこから数週間ほどの記憶も頭の中からごっそり抜けてしまっていた。溺れた時に体験した、強烈な死の恐怖が忘却に繫がったのだろうと医師には言われた。

 大人になった今でも、僕の中の空白はいまだ埋められていない。

「大丈夫ですか」

 漠然としていても心の奥底で触れたくないトラウマとして刻まれているようで、この話をすると体が震えて、ひどいとまいを起こすこともある。

 僕の顔色の変化を悟って、彼女は心配そうにグラスの水を勧めた。

「生きてて、よかったですね」

「そうですね、本当にそう思います」

「そんなことがあったんですね。やっぱり、記憶をなくした時は辛かったですか?」

「しばらくのあいだは戸惑いました。なんだか足りないものがあるって、また忘れたら、どうしようって。でも悩んでばかりいると、体にも心にも悪いから。少しずつだけど、なくしたものを必死に取り戻すより、今の環境に慣れていこうって考えるようになって、俺は立ち直れました。だからきっと、剣城さんも大丈夫です。三年は大きいけど、そのぶんヒントはたくさんあると思うから、焦ったりしなくていいんですよ……って、ちょっとれしすぎますかね」

「いいえ」

 僕ができる精いっぱいのアドバイスを美鶴は大切にしまうように胸に手を当てた。

「私だけじゃないんだって。少し、安心しました」

「ちょっとでもお役に立てたのなら嬉しいです」

「ありがとうございます。犬飼さんは、優しい方ですね」

 濡れた顔で笑いかけられ、顔の中心から熱を帯びていく。

 この笑顔だ。

 見たかった表情をようやく見られたことに、嬉しさがこみ上げる。

「あの」

「ん?」

「この前も言いましたけど。やっぱり、どこかでお会いしたことありますよね……私たち」

 なにかが引っかかるのだと、そんな様子で美鶴は僕に問いかける。

「どうして、そう思うんですか」

「うまく説明できないんですけど……そんな気がするんです」

 思い出の場所であるヒマル屋に来たことで、美鶴は失った記憶を思い出しかけているのかもしれない。

 僕はぐっ、と息を吞む。

 ここで、言うべきか、否か。取るべき選択肢のカードが二枚、頭の中に浮かぶ。

「そうでしたっけ?」

 真実を告げることは容易たやすい。でも今日は、やっと少しだけ笑えた彼女を、このままなんの不安も与えずに帰してあげたかった。

「で、ですよね。気のせいですね、すみません、何度も変なこと言って」

 僕が引き離すと、彼女は膨らませていた期待の熱を冷ますように、苦笑し。恥ずかしそうに髪先をいじった。

 ごめん、美鶴。でも、その代わりに君に渡したいものがある。

 僕は会話と食事でだいぶ温まったこの雰囲気が消えてしまう前に、ショルダーバッグの中から、今日彼女に渡そうと決めていたものを取り出した。

 勝負の瞬間。

「あの──剣城さん、今度、もしよかったら、なんですけど……」


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【書籍版】僕は君に、10年分の『  』を伝えたい。 天野アタル/ビーズログ文庫 @bslog

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