その②

 結局、見ていることしかできなかった……。

 十八時。

 猫村さんからの情報によると、バックヤードでのお説教から退勤するまでたっぷり小言を吹き込まれ、美鶴は散々な一日を過ごしたようだ。

 そんな彼女を元気づけようと他のスタッフさんたちが飲みに誘ったようだが、卒業した先輩も交えての飲み会であると知り、覚えていない人もいるし、がっかりさせるわけにはいかないと、美鶴はその誘いを断ったらしい。本当は行きたかっただろうに。

 美鶴にこれ以上の負担をかけるわけにはいかない。今日はもう会わないでおいた方がよさそうだ。そう思いながらも、あまりにも彼女がしようすいしていたので、そのまま帰宅する気になれず、こうしてついてきてしまった。

 疲弊しきった足取りに、ふらふらと揺れる肩。

 このまま家の近くまで見送るつもりだったが、美鶴はぐ家には帰らず、駅向こうの寂しい道を歩いて、少ししてから街灯の少ない公園に入り、崩れるようにベンチに座り込んだ。

 寄り道なんて珍しい。これは家でもなにかあったんだろうか……。嫌なことはことごとく続くものだ。お父さんとひんぱんに衝突すると聞いていたし、あり得そうな気もする。

『先輩を元気づけてあげてくださいね! そして亀井戸さんの株をここでばーんと上げちゃいましょう!』と、先ほど先輩思いの猫村さんから応援メールが届いていた。僕もそうしてあげたいのはやまやまなのだが、この状況はどうしたものか……。

 公園の出入り口の陰から息を潜めてベンチの方を見ている僕は、もう完全に〝それ〟でしかないわけで。巡回中のお巡りさんに目撃されたらと思うと、心中穏やかではいられない。

 とはいえ、あんなにも落ち込んだ美鶴をこのまま放ってはおけない。日もとっぷり暮れて、暗くて誰もいない公園に彼女一人を置いて帰れない。これ以上なにかあったら大変だ。

 などと考えていたら視線の先の美鶴が大きく俯いた。

「っ……」

 伏せられた顔から、一つ、二つとしずくがこぼれる。

 そしてそれを止めようと片方の手が当てられ、息と共に吐き出された苦しげな声が聞こえた。

 どうしよう、なんて考えている暇もなかった。

 彼女が目の前で泣いているのに、黙って見ている理由などない。

 ベンチの横に落ちた街灯の円の中に現れた僕に気づくと、小さく声を上げ、彼女はすぐに顔をらした。

「あなたは、……このあいだの……なんで、ここに……」

「あ……ごめんなさい。ええと、……」

 後頭部を搔きながら、それらしい理由を考える。

「今日は日中暑かったから、ずっと家にこもってたんですけど、涼しくなってきたし、ペットショップに行ってまたいやされようかなーと思って散歩してたんです。そしたら、ちょうどみつ……じゃなくて、店員さんが公園の方に行くのが見えて。ほらもうこんなに暗いじゃないですか、女性が一人でちょっと危ないなーって……」

「それで見てたっていうんですか……」

 涙声で言われて、胸が痛くなる。

 実は昼から見てました。とはとても言えない。

「……すみません」

「あの……悪いんですけど、今は、ちょっと、一人にさせてくれませんか」

 鼻をすすりながらも美鶴はなんとかして平常の顔をつくろうとする。

「大丈夫ですか」

「大丈夫ですよ……大丈夫に決まってます」

 そんなはずない。君が泣きながら大丈夫と言う時は大抵、大丈夫ではない時なのだから。

「いいから、行ってください。お願いですから……」

 涙の粒がさらに頰を濡らして、それをなんとかこれ以上流すまいとしている美鶴の前に膝を折り、僕はショルダーバッグに忍ばせていたポケットティッシュを差し出した。

「余計なお世話かもしれないですけど、よかったらこれ、使ってください」

 すると彼女は驚いたらしい。目を見開いて僕と僕の手に握られたティッシュとを交互に見て、少ししてからぽつりと言った。

「…………女子力高い」

 聞き覚えのあるつぶやきに思わず口元を覆って笑う。

「変だったかな」

「いえ。男の人からティッシュもらうの、はじめてで……」

 美鶴は不思議そうにしていたけれど、僕の厚意を突き返さずに受け取って、あふれた涙をそっと拭いた。

 涙を止めているあいだ、無言でそこにいる僕がさすがに気になったのか、彼女は赤くなった目を細めてベンチの隅にずれる。

「座れば……いいんじゃないですか」

「いいんですか?」

 不服そうだが美鶴は小さく、どうぞと答える。

「じゃあ、お邪魔しますね」

 真横に座ると警戒されそうなので、僕もまたベンチの隅にちょんと腰を下ろした。

 しばらく続く無言。

 茂みの中の虫のささやきと、タタンタタンと遠くで走る電車の音だけが聞こえる。

 美鶴は時折鼻をすすっては、こちらに少しだけ背を向けていた。そんな彼女を視線だけでさり気なく見る。

「……それ、またしたんですか」

 頰と両肘の大きなばんそうこうのこととわかり、美鶴は腕をさすって苦笑する。

「ええ……、ちょっと……」

「仕事、一生懸命されてるんですね」

 見てきたことを思い返しながら言うと、美鶴は伏し目がちに返す。

「違いますよ、後先考えてないだけで、私、そそっかしいから。頑張ろうと思ってやろうとするのに、から回りすることが多くて」

「それが一生懸命なんですよ、一生懸命なのはいいことですよ」

「たとえ一生懸命でも、結果が悪くちゃいいとは言えません……」

「なにかあったんですか」

「なにもないですよ」

「でも泣いてましたよ」

 図星を突かれて彼女の声に焦りが混じる。

「それは……ちょっと寝不足で、欠伸あくびしてたら、たまたま涙が出ただけです」

 こういう時の彼女はとことんかたくなだ。付き合いたての頃を思い出す。

 彼女に今必要なのは、優しいだけの言葉ではなくて、ゆっくりと気持ちを吐き出せる場所だろう。

「あの、もしよかったら。俺、暇なんで、でもなんでも聞きますよ」

「別に、そんな、愚痴なんてなにもないですよ……」

「そうかもしれないですけど……、つらい時は言葉にして吐き出すのが一番スッキリするから。もやもやしたまま帰るのって嫌じゃないですか」

「なんで私が思い悩んでる前提なんですか」

 君が思い悩んでるのを知っているからだよ。というのは心の中だけにとどめておく。

「例えばもし、すごく誰かに聞いてほしいのに周りに話せる人がいなくて、家でも嫌なことがあって、このまま真っ直ぐ帰りたくない、だけど一人でいるのも辛いなあって場合、話を聞いてもらうのって、もう誰でもよくないですか? 万が一そういうことだったら、ここにいる暇な人間が適役ですよ」

「それは……」

 ほぼ当たっていただろう。美鶴は奇妙だという目で僕を見つめている。

 そこで、なにかを言おうとして口を開きかけた、──その時。

 キュルッとわいい音が彼女のお腹から響き、もう手遅れなのに美鶴はおおにそこを押さえた。

「おなか、空いてるんですか?」

 美鶴は恥ずかしくてたまらないといった様子で耳の先まで赤く染め、口元をぎゅっと結ぶ。

「お昼……食べてなかったので」

 それは大変だ、と思うと同時に最高のアイディアが降りてきた。

 僕は素早く立ち上がる。

「よかったら、今からご飯、食べに行きませんか」

「は……?」

「元気がない時は、しいものを食べるのが一番ですよ。この近辺にとっても美味しいカレー屋さんがあるんです!」

「待ってくださいよ。そんな突然……」

 やはり少し強引すぎるかもしれない。でもここで引いちゃだめだ。多少強引でもここは攻めるべき、そうすればきっと、彼女は元気を取り戻す。僕にはそんな自信があった。

だまされたと思って一緒に行ってくれませんか、絶対に後悔はさせませんから」

「いや……そんな」

 この前会ったばかりの人。店に来るお客さん。たいして親しいわけでもないのに、なんでこの人は、こんなにも必死に私を誘っているのか──。

 困惑をあらわにする美鶴の脳内は、交差点の雑踏さながらに思考がせわしなく行き交っていることだろう。

 しかしそれでも、すぐに誘いを拒まないのは、彼女が冗談抜きに腹ペコであること、加えてカレーというフェイバリットワードに微妙にぐらついているからだ。

 美鶴はカレーが好きだが、夏に食べるカレーは殊更好きだ。

 ご飯で釣るなんてちょっときようかもしれないけれど、彼女の表情や言動にはまだ押す余地がある。

「美味しいんですよ、そこのお店」

 弱い場所をくすぐるように言い添える。

「具材が大きくて、お肉もすごく柔らかくて」

 ピクッと彼女の肩が動く。効果はある。よし、もうひと押し。

「夏に食べるカレーって、元気がない時でもなんか、するするいけちゃいますよね」

 長い長い沈黙の後。

「………………あの、カレー屋さんってどこですか」

 恥じらいを含ませたか細い声で返され、僕は内心で反り返るほどのガッツポーズをした。

「ここの公園を曲がったすぐのところですよ」

「…………行くところは、本当にカレー屋さんですか……?」

「えっ。そうですけど」

「…………」

「やめておきますか?」

 念押しすると、彼女は結んでいた口を解き、覚悟を固めたのか「行きます」と、ぶっきらぼうに答えた。

「よかった。きっと元気になりますよ」

「あの……お名前……聞いてもいいですか。まだ、聞いてなかったので、なんとお呼びすればいいか」

 言われて、そうだったと気づく。

「あ、すみません。えっと、俺は……」

 かめ──はさすがにまずい。

 だったら……。と、僕はとつに思いついた名を口にした。


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