4話

その①

 けがようやく発表された七月下旬の日曜日。

 その日のつるの一日は、控えめに言っても最悪なものだっただろう。

 昼まで資格試験の勉強をしていた僕は、夕方に退勤する美鶴に再び会いに行こうと考えていた。

 急ピッチでノルマをこなし、どこにでもいるふうな無難なファッションに、ワンショルダーバッグを肩にかけ、気合いを入れるべく、クーラーの下でだらしなく伸びていたライスに敬礼をする。

 飛び起きて見送ってくれるかと思いきや、愛犬はすっかり冷風のとりことなって主人に目もくれず、尻尾だけで見送りを済ます始末。

 暑さもあるのだろうが、どうやら美鶴が部屋に来なくなったことに対してねているみたいだ。大好きだったボール遊びも、おやつのジャーキーにも、最近あまり飛びついてこない。

「行ってくるからな」

 なにを言っても尻尾で返事を返すライスに留守番を頼み、僕は自宅を出た。


 十三時頃。

 ホームセンターに行き、二階のファストフード店のカウンター席へと着く。

 少々スタンバイが早すぎる気もしたが、僕はこれから二度目のアプローチをどう自然に、無理なくこなすべきか作戦を練らなければならない。

 ギリギリで滑り込んで、当てずっぽうに声をかけるのは危険すぎるし。彼女から見て僕は初対面に近いお客さんでいなくてはならない。変にボロが出て、病院で抱きついてきた不審者と気づかれたらおしまいだ。常に慎重にいかなければ。

 注文したアイスコーヒーにストローをさして視線を下に向ける。

 店内は『コ』の字型になっており、内側のカウンター席に座ると、一階のフロアの様子を眺められるようになっていて面白い。

 真下には日用品コーナー、その横は家具家電、かべぎわに展開されたペットコーナーもこの位置からだとよく見えた。

 夏期休暇と日曜日が重なり、フロアはどこもかしこも家族連れでごった返している。ペットショップも例外ではなく、レモン色のエプロン姿のスタッフさんたちは各売り場に散らばり息つく暇なく接客対応に追われている様子だった。

 その混雑の中に、やはり美鶴もいた。

 親指サイズほどの彼女は雑巾とバケツを手に持ち、客の邪魔にならないよう工夫しながらフロアの清掃を行っている。

 美鶴が復帰することはすなわち足手まといを増やすのと同義であると、うわさの店長さんは一番反対していたらしく、復帰してからはなにかと強く当たっていたり、接客はいっさい教えず、始終掃除ばかりさせているのだとねこむらさんからの情報で明らかになった。

 あからさまな嫌がらせを受けているというのに美鶴は文句も言わず、これが今の自分にふさわしい仕事と割り切っているのだろう。床に膝をついてせっせと手を動かすその姿は、召使いにされたシンデレラのようにけなで胸にじわりとくる。

 ひたむきな横顔に、「頑張れ」と僕は心の中でエールを送った。

 なにか彼女を喜ばせてあげたい。仕事を一生懸命こなしている美鶴がほっとできるような、なにか……。

 考えている最中に、ハプニングが起こった。

 床清掃を終え、陳列棚を拭いていた美鶴がげんそうな顔で首を伸ばして、少しして早歩きでショーケースの方へ向かっていった。

 それを目で追うと、彼女がなにを気にしていたかすぐにわかった。

 幼稚園児くらいの小さい、それも金髪の男の子が、ショーケースの二段目のガラス扉を乱暴にたたきまくっている。

 ペットショップではよくある場面なのかもしれない、だがけして放置していいものでもない。他のスタッフさんも気にしているものの、接客で手が回らない様子だ。

 そこへ雑巾とバケツを抱えた美鶴が駆けつけて膝を折り、男の子に話しかける。

 身振り手振りで一生懸命「叩かないで、ワンちゃんびっくりしちゃうよ」と伝えているようだ。

 しかし男の子は、聞き分ける様子がなく、扉を叩いてなおも主張を続けている。

 保護者同伴でないと子犬や子猫は抱かせられない決まりがだいたいどこの店にもある。彼女もそれを伝えている様子だが、いつまでっても男の子の保護者は現れない。美鶴は仕方ないとばかりに、清掃用具を足元に置き、一番上の段からチワワを取り出し、そこで彼に見えるように中腰になった。が──、

 それでも不満だったのか、男の子は美鶴の腕の中の子犬を奪い取り、あろうことかボールでも放るかのように床に投げ飛ばしたのだ。

 危ない──。

 思わず立ち上がってしまうほどの衝撃的な瞬間だった。

 子犬が、抵抗もできずに落下し、硬い床に激突する──その寸前で、美鶴は両腕を伸ばし、体の全てを使って子犬の体を包み込み、受け身も取らずに転がった。

 彼女の体がバケツに激突して、濁った水がその場にぶちまけられ、それを美鶴も豪快にかぶってしまう。

 行き交う人々も彼女の奇行に足を止め、あたりは騒然となった。

 間一髪で子犬を守った美鶴は、びしょれの体を震わせながらなんとか顔を持ち上げ、後ずさりをする男の子をにらみ、そこでなにかを言ったのかもしれない。

 くしゃっと顔をゆがめたかと思えば、打ち上げ花火みたいに男の子が大泣きする。

 そしてその絶叫を聞きつけ、現れたのは、絵に描いたような派手な身なりの若い母親だった。


 そこから数十分、遠目から見てもわかるほど男児の母親がげつこうし、水をしたたらせた美鶴にくってかかる姿が続いた。

 美鶴は何度も頭を下げ、必死に説明していたようだが母親の怒りは収まらず。まもなくして太った店長さんが奥から出てきたが、冷静に話を聞くというより、ペコペコと平謝りするだけで状況はちっとも変わらず、むしろ燃料投下につながっている気さえした。

 美鶴はエプロンの端を握りしめて泣きそうな顔をしている。彼女に向けられたせいがこっちにまで聞こえてきそうで、コーヒーの紙カップをつかんだ手が震える。

 品出しをしていた猫村さんが棚の陰からそわそわと顔を出し、売り場の中心で繰り広げられている惨劇に緊迫したまなしを送っていた。

 だめだ……もう見ていられない──。

 僕はファストフード店から飛び出し、階段を駆け下りる。

 部外者なのはわかっている。でも、黙って見ているには酷すぎる光景だ。

 人混みをけ、なんとか僕は現場に近づいた。

「誠意が伝わんない! 土下座しろよはやく!!」

 人集ひと だかりの向こうからは、そんな暴言まで聞こえてくる。

 ふざけるな──悪いのは彼女じゃない……!!

「──もう充分じゃないですか。お客様」

 その場に割って入ろうとした寸前、真横から落ち着き払った声が投げられた。

 にこやかな表情の男性スタッフさんが慌てる様子もなく僕の横を通り抜け、怒りの頂点にいる母親の正面に立つ。

「なに、なんなのよあんた!!」

「ご家族でお越しのところ不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございませんでした。私は社員の、ぬえはらと申します」

「ちょっと君、下がって」と小声で店長さんがとがめたが、彼はぜんとした態度で激昂する母親を見下ろし、後ろ手でうつむいていた美鶴の頭部にタオルを被せた。

「お子様もさぞびっくりされましたでしょう。ですが、彼女にも彼女なりの理由があって、あのような行動に出てしまったのです。彼女は始終真面目に勤務に励んでおりました。けしてお客様を不快な気持ちにさせようとしていたわけではございません、そのあたりをどうか寛大なお心でご理解頂きたいのです」

「はあ!? うちの子泣かしといてなにが真面目だよ!」

「でしたら証明させて頂いてよろしいでしょうか。彼女は土下座を強要されるほどのあやまちを犯してはいないということを」

 涼しい表情で彼が人差し指を天井に向ける。

「そうですね……ちょうど、あのあたりに防犯カメラがありますので、よろしければ一度事務所の方にご足労願えますか。お客様自身の目で映像を確認していただけば、きっと納得していただけるはずですので」

 笑顔だが低姿勢ではない。有効なマスに優位な駒を置いていくかのような、自然だが、無駄のない誘導。明らかに場慣れしている。多分この人は敵に回すと厄介な人だ。

 そう感じたのは僕だけじゃなかったらしい。今まで勝ち誇った顔つきでいた母親の口調にかすかなあせりが混じった。

「カ、カメラがなんだっていうのよ!」

「──もうやめときなよ。これ以上はあんたが恥ずかしいよ」

 それでもなおえ続けようとする母親の肩を後ろから叩いたのは、あきれ顔を浮かべたスーツ姿の初老の男性だった。

「そのお兄さんの言うとおりだよ。このお姉さんは真面目に仕事してたよ。私、見てたけどね。あんた、あそこのベンチでずーっと携帯電話いじってたでしょう。そのあいだあんたの子供なにしてたと思う? ケースは乱暴に叩くし、お姉さんの脚は蹴るし、やりたい放題だったよ。私はしつけのなってない可哀想か わい そうな子供だなって思いながら見てたのさ。そしたらどうした、お姉さんが見せてくれようとした子犬をあんたの子供はいきなり床に叩きつけようとしたんだ。お姉さんは体張って子犬を守ったけど、その子は結局ごめんなさいもなにもない。そりゃあ叱られたって文句は言えないと思わないかい? それで土下座しろだって? おかしなことを言うんじゃないよ」

「私だけじゃないよ。みんな思ってるよ」と言われ、ようやく冷たい視線が自分だけに集中していることに気がついたのか、母親の顔が紅潮しはじめる。

「なによ……子供がやったことなんだから!!」

 苦し紛れにわめくと、母親は子供の腕を強引に引き、人混みの向こうに立ち去っていった。

 嵐が通り過ぎ、一時はどうなるかと思った僕もほっと一息ついた。しかし。

「この忙しい時間帯に、なんて面倒引き起こしてくれたんだよ。ほんと、三年も勤めてるくせに戦力にならないんだからさ……。無理だなって思ったら今日づけでやめてくれたっていいんだからね」

 一難去ったと思いきや美鶴はその後、ボソリと吹き込まれた嫌みを皮切りに店の奥へ連れていかれ、一時間以上も叱られたらしい。

 よごれた体を拭き、予備の制服に着替えて、再びバックヤードから出てきた彼女の顔は白く、目元をこすり、肩を下げた姿は見るにえないものだった。

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