第39話 魔犬退治

 魔犬の注意をひかないよう、ぼくはゆっくりとアリサに近づく。

 アリサとの距離をちぢめながら、のくは風の精霊を心のなかで呼んだ。すると、ぼくのまわりを弱い風が吹きぬける。


 ――少しだけ、ほんの少しだけでいい。右腕に風の精霊を呼ぶんだ。


 ぼくは必要なぶんの風をイメージしつつ、風の精霊に呼びかけた。

 すると、にわかに風が右腕にまとわりつく。


 ――今だ!


 ぼくは魔犬に背をむけると、風をまとわせた右腕でアリサの腰をつかんだ。そして、彼女をひょいと抱えあげる。

 右手で抱えたアリサの体は、風の精霊のおかげで空気みたいに軽い。さじ加減をまちがえれば、アリサを傷つけかねないと危惧したが、うまく精霊を操れたらしい。

 精霊魔法が成功し、ぼくは一瞬安堵した。しかし、すぐに気をひきしめると、ひらいたままの扉から全速力で廊下へとびだした。


 ぼくがアリサを抱えて逃げはじめるやいなや。魔犬が「がううう!」と吠え、大きく床を蹴る音が聞こえた。

 つぎの瞬間。生臭くも暖かい風を大いに感じる。たぶん、魔犬がぼくらに噛みつこうとしたのだろう。

 しかし、逃げるだけで精一杯で、ぼくには事実を確認する余裕はない。


「きゃあッ!」


 風を感じた瞬間。ぼくに抱えられ魔犬のほうをむいた状態のアリサが悲鳴をあげる。彼女の声で、ぼくはアリサの無事を確信し、駆ける速度をより速めた。


「しっかり、つかまっていて!」


 全速力で駆けながら、ぼくはアリサに声をかける。


「うん!」


 アリサが短く返事をし、ぼくの上着をぎゅっとつかむ。それから彼女は「あっ!」と声をあげ、僕に言った。


「よかった! ロザリーさんとエスミーも無事よ。魔犬は気づいてないわ!」


 ぼくらは廊下にとびだし、正面玄関にむかっている。

 しかし、ぼくはロザリーとエスミーを見ていない。

 それに魔犬も気づいていないのなら、ぼくらとは反対方向にロザリーたちは逃げたのだろう。

 ロザリーとエスミーの無事もわかり、さらに気持ちが楽になる。


 ――だけど、それって……


「それって魔犬が脇目わきめもふらずに、ぼくたちを追って来てるって意味だよね?」


 ぼくは大声でアリサに質問した。


「うん!」


「そうだと思った!」


 アリサの返答を聞いたぼくは、また走る速度をあげにかかった。


 速度をあげはじめるとすぐ。カノーバ邸の正面玄関が見えてきた。

 ぼくは屋敷の扉を蹴りやぶるがごとくあけ、屋敷の前庭に逃れた。


 ――かなり走ったはずだ。そとにでたし、もう追ってこないのでは?


 そう思い、ぼくは「魔犬はまだ追ってきている?」と、走りながらアリサにたずねる。

 するとアリサは「まだ追ってくるわ!」と、短く答えた。


 ――もしかしたら魔犬は、アリサを自分の獲物と思っているのかも。


 走るぼくの脳裏に不安がよぎる。

 ぼくの考えが正しいならば魔犬の習性上、この魔犬を退治する以外に助かる道はない。

 アリサの体重をほとんど感じないとは言え、さすがに僕もそろそろ体力の限界だ。全速力で走るのはあと数分が限度だろう。


 ――そうとなれば、しかたがない! 計画変更、あれを使おう!


 臨機応変に対応すべく、ぼくは走るのをやめる。全速力で走っていたからだ。足をとめるべく踏んばるとブーツがすべり、ずざざと大きな音がした。抱えていたアリサを、ぼくは急いでおろす。直後、ズボンの裾をあげ、すばやくブーツポケットからナイフを取りだした。

 城下町での一件以来、肌身はなさず身につけているナイフだ。

 アリサを自分の後ろに隠しながら、ぼくは力いっぱいナイフを魔犬になげる。

 つぎの瞬間。魔犬がけたたましく「ぎゃおん!」と悲鳴をあげ、のけぞる。

 見ると、魔犬のひたいに、ぼくの投げたナイフが深々と刺さっていた。しかし、これだけでは致命傷にはならない。

 魔犬がひるんだのを機会に、ぼくは呪文の詠唱をはじめた。


「カイ。それって」


 ぼくの詠唱しはじめた呪文を耳にしたからだろう。アリサが戸惑いの視線をぼくにむける。

 しかし、詠唱を開始しているぼくは、アリサに返事ができない。視線をかわして、うなずいてみせるだけで精一杯だった。


 ぼくが詠唱する間に、魔犬は体制を立てなおす。

 かぶりつく気だろう。魔犬は大きく口をあけ、前足をあげて襲いかかってくる。

 しかし、ぼくの詠唱はまだ終わらない。

 とがった魔犬の牙がぬらりと光り、前足は力まかせにふりおろされる。


「きゃあ!」


 危険を感じたアリサは、恐怖に耐えきれず悲鳴をあげた。


 ――あと少し!


慈悲じひぶかき闇がしばしの安息をあたえる!」


 噛みつかれる寸前、ぼくは詠唱を完了させた。同時に、魔犬にたいして睡魔の魔法が発動した。


 魔犬の影から青黒いもやが立ちのぼり、ひるんだ魔犬を包みこむ。

 青黒い靄が完全に魔犬を包みこんだ瞬間。靄はゆっくりと形をくずし霧散した。

 どうと大きな音をたてて魔犬が倒れこみ、砂ぼこりをまきあげた。つぎの瞬間には、魔犬がやすらかな寝息を立てはじめる。


 眠りはじめた魔犬を見たぼくは、ほっとため息をつく。


「し、信じられない」


 寝息をたてる魔犬を見下ろし、困惑顔のアリサがつぶやく。

 ぼくはアリサの発言の意味が理解できず「え?」と、たずねかえした。

 すると、アリサは魔犬に視線をむけたまま「カイってば、ばかなの?」と怒気のにじんだ声で言い、さらに言いたてた。


「睡魔の魔法をつかうなんて! 成功したからいいけど、失敗していたら大惨事よ!」


 魔法に失敗した場合を想像したらしい。アリサの顔から血の気がひく。

 アリサの言いぶんも理解できる。よって、ぼくはアリサを落ちつかせようと「だいじょうぶだよ」と告げ、つとめて冷静に説明した。


「睡魔の魔法は得意なんだ。今まで一度も失敗はないんだから」


 しかし、アリサは落ちつくどころか、怒気を強めた。彼女は魔犬から目をはなし、ぼくを見ると「カイはいつもそう言うけど、そんなわけ」と言いかけ、今度は顔を青くした。

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