重力

前則呈里

第1話

 野良市四調町はトタン屋根と煙突が立ち並ぶ工業地帯だ。高度経済成長期の折に埋め立てられた海の上に立つこの土地は、自動車や飛行機といった重工業製品の開発、輸出入によって発展してきた。南北には工業地帯が延び、西部は町の発展を支えた太平洋が広がっている。東端には大水駅があり、そこから県の中心へ向けて南北に線路が続くため、町への入り口は鉄道を大きく跨ぐ二本の橋、大水橋と小水橋のみとなっている。そのためまず私は大水橋を渡って四調町へ入ることにした。

 大水橋はコンクリート造りの大きな橋で、片側四車線の主要道路を導いており、四調町へ通う人々はこの橋を使っている。大水駅の南側に位置し、橋の頂上からは電気供給のための鉄塔や白く塗られた煙突をはじめとする町全体を一望することができた。道路脇の街路樹は丁寧に剪定されており、この道の続く先がオイルの滴る工業地帯だと感じさせない清潔感を持っていた。実際橋の先はニュータウンを思わせる舗装された道路が続き、職員の運動用であろうグラウンドまでも見ることができた。奥に見える鉄塔も建てられてから四十年はするであろうにも関わらず、まるで昨日完成したばかりのように軋む音の一つも立てず荘厳な面持ちで立ち並んでいた。私にはその清潔さが不思議に思えてならなかった。工場達は建設されてから一部の舗装工事はすれど、工場全体を休止させ建て替え工事をしたものは一つも無く、トラックの排ガスと巻き上げる砂で汚れが染みつくはずである。そして、この奇妙なまでの清潔さに疑問を持つ者はおらず、話を聞くと皆口をそろえて清掃業者が優秀だとか、世間一般の工場はこういうものだと言った。拭いきれない違和感を抱えたまま私は町を一通り見て回りその日は家へ帰ることにした。

 次の日、私は昨日渡った大水橋から北へ五キロ程離れた小水橋から町へと入ることにした。小水橋はその名の通り鉄製の小さな橋で回りは薄暗い葉の付いていない木々に囲まれていた。多くの通勤者が大水橋を使っていたのに対し小水橋を使っている人は一人もいなかった。大水橋が駅の隣にあるため、電車を利用する人が大水橋を渡ることは十分理解できるが、周辺の住宅に住んでいる人までも近くにある小水橋ではなくわざわざ遠回りをして大水橋を渡っていたのだ。おかげで小水橋に人が通った痕跡はなく、鉄橋にもかかわらず全体に苔やキノコが生えている。橋の手前に立つと今まで晴天だったはずなのに空は薄暗く見え、この先には何もなく暗黒が広がっているとさえ思えた。

 苔を踏みつけながら橋を渡りその頂上に立ったとき私は恐怖のあまり声を上げた。頂上から見える景色は確かに昨日私が疑い、実際に見たかったものだ。しかし、実際にこうも唐突に望んだ景色が目に映ると、幻覚見ているように思え、自らの正気を疑ってしまう。橋の頂上から見えた四調町はとても昨日見た町と同じとは思えない様相を呈していた。黒々とした煙突は鼠色の煙を容赦なく吐き出し、風にあおられたトタン屋根が開閉を繰り返し鳴動していた。奥に見える鉄塔群は錆びて傾き今にも倒れそうに揺れていた。しかし、それだけならば狐に化かされた気分で不安こそ感じれど、叫びはしなかっただろう。そこにあったのは荒廃した工場地帯、汚染された港、そして何より、私の疑っていたもの、見たかったものとは全く違う私の記憶の中に存在しないものがその町にはあった。いた。こちらを見ていた。町を歩くその者共がせせら笑いを浮かべながらこちらを見ていたのだ。木々が笑い、烏が笑い、その者共も笑っていた。

 私はすぐさま引き返そうとした。橋を降りて駅に向かおう。大水駅はだめだ。あの駅から降りてくる者共は皆この町へ向かっていく。東の住宅地も恐ろしい。住宅地に住む者共は皆この町を侵略している。とにかくこの場を離れたい私は走るしかなかった。そう心に決めて一歩足を踏み出したとき、小さく地響きがした。振り返った私は直後、一心不乱に走り出した。動いたのだ!鉄塔が!私を逃がすまいと追いかけてくる!逃げなければ!その手足を伸ばして私を捕えようとしている!奴らも来る!逃げなければ!

 どこまで逃げればよいのか。奴らはどこに潜んでいる。奴らは擬態している。遠くへ、とにかく遠くへ逃げなくては。もう二度とこの町へは近づこうと思わない。もう二度と真実を見ようとは思わない。

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重力 前則呈里 @azisan

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