カンナ

渋谷楽

第1話 カンナ


 踵を地面にいつもより強くぶつけると、パカン、という小気味の良い靴の音と共に、心臓が大きく跳ね上がるのを感じる。自分のこの激しい全身の動きを一言で表現するならば「焦燥」だ。学校に向けて、さらに足の回転を早くした。


 地方の高校の二年生である「高槻正人」が、軽音部の部室に忘れ物をしたのに気が付いたのはつい20分ほど前のことだ。その「忘れ物」に気が付いた時には文字通り全身から血の気が引いていき、家の居間で一緒にくつろいでいた妹などは、自身の兄のその変わりようを見て心筋梗塞を疑ったほどだ。


 真っ白い顔のまま部屋着姿で出ていこうとするところを妹に止められ、学校に行くなら一応制服の方が良いという助言を受け、しわくちゃな制服にマフラーをぐちゃぐちゃに巻いて出ていった。一度駅に寄り時刻表を確認したが、走る方が早いと判断した。


「ああ、ああ! くっそ!」


 思わず、悪態をつく。正人はいつも、いつもこうだった。度々空想に耽り、時には遥か先の未来にまで思いを馳せ、何か忘れているような気がしながらも、それに気が付くその時まで家でのんびりとしているか、自分の部屋でギターの練習をしているのだった。


 いつもはそんなことが起こっても笑って済ませていたのだったが、今度ばかりはそれで済ませられない。正人にとってそれは「他人に絶対見られてはいけないもの」なのだから。


 もはや足の裏全体が痛くなるほど、学校前の坂を全力疾走で駆け上がると、まだ玄関が閉められていないことに安堵し、部室にはゆっくりと歩いて向かうことにした。


「はあ、疲れた」


 三階の端に拵えられた部室のドアを開けると、思わずそんな声が漏れた。


「……は? え?」


 そして、そんな素っ頓狂な声を出してしまったのもまた、思わず、といったところだ。


「あの、どちら様?」


 ギターやドラムが綺麗に整列されている空き教室の中で、窓際に立っていたのは、綺麗な黒髪を肩まで伸ばし、どこか凛とした雰囲気を放つ少女だ。


「……あの、聞いてます?」


 弾かれたように、振り返る。その大きな瞳と整った鼻筋に一瞬、吸い込まれるような魅力を感じてしまうが、すぐに、この状況を説明させなければと思い直し、言葉を続ける。


「軽音部に何か用ですか? 入部なら、顧問の竹下先生に……」


「もしかして、これを取りに来たのかい?」


「えっ?」


 もしや、と思い、彼女の手元に視線を移すと、その手には確かに、自分が初めて書いた「詩」が握られていた。


「わ、うわああああ! み、見ないでくださいよ勝手に! 何なんですかあなた! この学校の生徒ですか!?」


「え、ああ、すまない。自己紹介がまだだったな。私は『カンナ』だ。言ってしまえば、この学校の生徒ではないな。偶然迷い込んだこの空き教室で、面白い歌を見つけてな。これを見ながら、私のこれからについて思いを馳せていたところだ」


 偶然? 思いを馳せる? 他校の生徒がここで? 聞きたいことは山ほどあるが、今はとりあえず、自分の書いたその「面白い詩」を取り返すのが先だ。


「それ、俺が書いたんです。返してもらえませんか」


「なんと、そうだったのか。これはすまない……と言いたいところだが、君の名前を教えてくれたら返してあげよう」


 一体何なんだよ! そう叫びたくなる気持ちをぐっとこらえて、口を尖らせながら答える。


「高槻正人、です」


「正人君、正人君か。覚えたぞ。ああ、覚えたとも」


 それはこっちも同じですよ。その言葉は、少し乱暴に紙を受け取ることで堪えた。


「正人君、それ、歌ってくれないか」


「はあ!? 今ここで? 意味わかんないですよ!」


「君、たまに路上で一人歌ってるだろ」


「はえ? え、ああ、そうですけど」


 憎たらしい笑顔を浮かべたカンナは、ギターの傍まで歩いていき、それを優しく撫でた。


「歌手、目指してるんだな。かっこいいと思う。そういうの」


「……だからって、今」


「私、君の歌が好きなんだ」


 カンナのその目には、今までと違って意思が込められているように感じた。


「君の声が、好きなんだ。可愛い見た目をしているのに、歌声は力強いんだな。驚いた。その声で、青春だとか、夢だとか語られてしまうと、私の悩みが無理やり剥がされて、ゴミ箱に捨てられてしまうようだったよ」


「……俺の身長のこと馬鹿にしてるんなら、歌いませんよ」


「悪かった、悪かった。でも、そういう男の子が好きな娘も、きっといるぞ」


 それ、微妙にフォローになってないっすよ。言ってから、ギターを受け取り、椅子に座ると、爛々と目を輝かせる彼女に釘を刺しておくことにする。


「……あんまり、期待しないでくださいね」


「それは無理な相談だな。だが、出来るだけ努力はしてみよう」


「全く……では」


 大きく、息を吸った。


 それは不思議な感覚だった。いつも孤独で、一人歩きしていた「詩」は、自分に興味を持ち、傍で聞いてくれる人がいるだけで、初めて「歌」に昇華されていくような気がした。


 サビの部分は、まるで世界中に響かせるように、ゆっくりと、それでいて激しく。自分に欠けている低音の伸びを打ち消すように、心地よく叫ぶように。


 ああ、もう終わりか。最後のフレーズの余韻が消える頃になって、そんなことを思った。


「ほら、これで満足です、か……」


 ギターを持ったまま、言葉を失ってしまったのは、彼女のその身体が、向こうの壁を透かしてしまうくらい透明になっていたからだ。


「ちょ、カンナさん!? 大丈夫ですかそれ!?」


「はえ? ああ、これか、多分大丈夫じゃないな。はは、何だろう。視界もぼやけてきたぞ」


 涙を拭う。彼女のその仕草にも危うさを感じて、その細い腕を、掴む。


 が、掴めない。掴んだ、と思っても、手は、彼女が目の前にいるのに、虚空を走ってしまう。


「ああ、何だよこれ。何なんだよ、一体」


「……正人君、そういえば君、忘れ物を取りにここに来たんだろう?」


「へ? そ、そう、ですけど」


「私にとってのそれが、君の歌だったんだよ。目的は達成したから、お互い、もう行かなきゃな」


 そんなことを言って彼女の身体は、蛍の最期の輝きのように、強く光っては点滅する。


「迷惑かけてごめんな。そして、ありがとう」


「ちょ、ちょっと待って!」


 俺はまだ、お礼も言っていない。声まで、虚空を駆けていったようだ。最後の彼女の泣き笑いの表情を、胸に閉じ込めておくように、ギターを抱いた。


「一体、何だったんだよ。あんた」


 急いで家に帰り、テレビをつけた。どうやら、自分の隣の高校に通う女子高生が自殺したらしい。原因は、実の両親による虐待だった。彼女の遺書には、「次があるなら、もっと力強く」そんな言葉が残されていたらしい。


 部屋に戻り、手汗でぐちゃぐちゃになった歌の、まだ空いているタイトルの欄に、シャーペンを近づけた。


 赤く、力強い幹の先に、色鮮やかな橙色の花を咲かせる「カンナ」の花言葉は、「永遠」だ。それもいいか、と、笑った。


 でも、俺は、忘れ物が増えた気分だよ。呟いたその言葉は、今度は、この心をしっかりと掴んだようだ。溢れ出てくる涙を、いっそ全て吐き出すように、心地よく、叫んだのだった。



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カンナ 渋谷楽 @teroru

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