十一 突然の幕切れ(2)
けっきょく僕らは何もすることができなかった……いったい、なんのために先生と僕はこんな所までわざわざ来たんだろう。
今、目の前には自殺した人間の死体が横たわっているというのに、どこか嵐の過ぎ去った後のように穏やかな空気の流れるその場所で、僕も残された遺族達とともに、終わりゆく事件への淋しさとも物足りなさとも取れる感傷に浸っていた。
「とりあえず、警察が来る前に一応現場の状況を押さえておきたいので、藤巻さん、またカメラをお貸しくださいますか?」
そんな中。まだ事件を終わらせる気のない人物が一人だけいた………秋津先生である。
先生は、何かが引っかかるとでもいうような顔をして藤巻執事にカメラを注文する。
「あ、はい。わかりました。では、早速に」
これまでと違い、若干明るいような感じのする声でそう返事をすると、藤巻執事もそそくさと現場を後にする。
「柾樹君と桜子さんも、どうぞお屋敷の方にお戻りになっていてください」
「はい……柾樹さん、行きましょう」
先生に言われ桜子さんも、いまだ呆然と佇む柾樹青年を促して温室から出て行く。
そうして、温室には僕ら二人だけが残されたのだが、先生は皆がいなくなるのを待っていたかのように、いつもの調子で唸り声を上げた。
「うーん……どうにもしっくりこないんですよねえ」
やはり、先生は薫君が犯人であったことにまだ納得していない様子である。
「というと、何か薫君が犯人ではないという確かな根拠でもあるんですか?」
この状況からして、どう見ても彼が犯人であることは明らかだろうと思っている僕は、ちょっと意地悪にそんな質問を投げかけてみる。
「いえ、そこまではっきりしたことは言えないのですが……例えば、梨花子さんが殺された夜、梨花子さんと薫君だけが一緒に眠いと言って席を立ったこと。あれは、どうにも都合がよすぎやしませんかね?」
「それはそうでしょう。青酸カリを入れるためにわざとそうしたんですから」
「いや、そこなんですがね。一見そう思えるのですが、あの状況でそんなことをすれば、一発で僕が犯人ですと言っているようなものです。現に今もそのことで疑われてるんですから。もし犯人が薫君だとして、そんなマヌケなことしますかね?」
「それは……やっぱりマヌケだったんじゃないですかね」
しばし考えた後、ちょっと彼に失礼だが僕がそう答えると……。
「御林君……じつはけっこう単純ですね」
と、つまらなそうな顔で先生にそう言われた。
その人を小バカにしたような言葉に僕はちょっとムカっときたが、脱線してはなんなので黙って先生の話の続きに耳を傾ける。
「こうは考えられないでしょうか? 例えば誰か別に真犯人がいて、梨花子さんを殺害し、その罪を薫君になすりつけるために二人にだけ睡眠薬を盛ったとか。梨花子さんが眠いと言い出したのは食後のお茶の最中ですし、あのお茶の中にその睡眠薬が入っていたのかも」
「まさか、そんなこと……」
……いや。ないとは言い切れないかもしれない。
先生に言われるまで思いもしなかったのだが、その可能性は考えられなくもない。よくよく思い返してみれば、確かにあの二人だけが急に眠くなって席を立つというのも変な話だ。しかも、二人とも普段はそのようなことがなかったというし……。
薫君もだが梨花子さんにしたって、あの時、眠りにさえ行かなければ薫君のアリバイがなくなるようなことはなかった。これは、〝薫君が梨花子さんを殺した〟という推理を導き出すのにあまりにも都合がよすぎるのだ。
だが、それには一つ大きな疑問が残る……。
「でも、もしそうだとすると、真犯人はどうやって睡眠薬を二人にだけ盛ったのでしょうか? あの時、ティーカップは
その疑問を口に出して先生に尋ねる内に、自分でそのトリックの仮説と新たな容疑者に思い至ってしまう。
「ええ。そこがまだ疑問なのです。だから、はっきりしたことは言えなかったのですが、どうにもそのことが不自然に思えてならないのですよ」
先生の話に、薫君が犯人であるという僕の確信も少し揺らぎ始めている。
「まあ、そういうわけで、この自殺についてももう少し考えてみる必要があります」
そんな僕に断るようにして言うと、先生は再び現場を調べ始めた。
一応、僕も一緒に辺りを見回して見るが、青臭い、季節外れの温室植物の鉢植えに囲まれて倒れる薫君の死体と、その鉢植えの間に置かれた遺書以外にはこれといって怪しいものも見つからなかった。
「ここに薫君らしき靴跡がありますねえ……」
だが、遺書の置かれた台の前にしゃがみ込んでいた先生が、不意にぽつりとそう呟く。
見ると、若干湿り気を帯びた地面の上には、微かではあるが二つの靴底の跡が爪先を台の方に向けて残っている。
「他の足跡は残念ながら皆さんに踏み荒らされてしまっていますが、これだけは残っていたようですね」
そして、さらに横たわる薫君の足裏とその足跡を見比べながら先生が続ける。
「薫君はここで、台の方を向いて立っていたんですね……御林君、ちょっとここへ来て同じように立ってみてくれませんか。ああ、足跡は踏まないように気をつけて」
「あ、はい」
先生のご希望に沿って、僕は薫君の足跡と同じように爪先を台の方に向け、今は亡き彼の代わりにその場所に立ってみる。おそらく先生はそのわずかに残された痕跡から、昨夜の薫君の行動を再現してみるつもりなのだろう。
「こうですか?」
「ええ、そうです。さて、薫君は昨夜の11時~12時頃、そこに立って何をしていたんでしょうか?」
と訊かれたが、そう言われても僕にわかるわけがない。
「さあ? まさかそんな夜中に植物観賞なんかしないでしょうし、星を見るにも温室の中でってことはないでしょうからねえ……」
僕は後を振り向くことなく、背後の先生にそう答える。
「今だったらこうやって、この台の上に置いてある遺書や検査結果の紙を見れますけどね……あ! もしかしたらここで遺書を書いたとか? それにはちょうどいい位置かもしれませんよ!」
背中を丸め、台の上の遺書を覗き込みながらそのことに思い至ると、先生がぽんと手を叩いた。
「ああ、それですよ。その格好です。遺書をそこで書いたのかまではわかりませんが、その格好で薫君は台の上にある紙を見ていたんですよ。たぶん」
「あ、でも、ここって照明とかないですよね。ならやっぱ違いますかね? 夜じゃ真っ暗で見えませんよ。他に懐中電灯とかも落ちてなかったし……」
「おお! 御林君、いいところに気づきますねえ」
僕はそのことに気づき、ガラスでできた三角の天井や周りの地面をきょろきょろと見回しながら、今、自分で言った推理を早々に撤回したのであるが、なぜだか先生は感嘆の声を上げ、さらに僕を賞賛する。
「そうですよ。文字を見るには明りがいるんです。とするとやはり、もう一人の人物がここにいたってことですかね?」
「えっ!? もう一人ですか?」
さらっと爆弾発言をしてくれる先生に思わず振り返ると、先生は僕の背後すれすれに立ち、僕の肩越しに懐中電灯を照らすような仕草をしてみせた。
「ほら、こんな風にして、薫君ともう一人の人物は台の上にあるものを見て何か話をしていた……という状況が考えられます。しかもこの状態だと、後から後頭部を殴るなり、刃物を背中に突き立てるなりして、その人物が無防備な薫君を殺すのは大変容易なようですね」
「
そんな怖いことを言う先生に、僕は背後に冷たいものを感じながら顔をしかめる。
「まあ、遺体に外傷はなく、青酸カリによる中毒死は確かなようですから、この状態で襲ったってこともないでしょうけれど…」
僕の呟きに、不謹慎にも愉快そうな声でそう言いかけた先生だったのだが。
「いや、ちょっと待ってください!」
突然、大声を上げると、まるで弾かれるようにして後方に横たわる薫君の死体に飛びつき、その襟首を摑んで手前に引っ張った。普段はのほほんとしている先生にしては、いたく珍しい敏捷な動きである。
「そうか。そういうことだったんですか……御林君、これを見てください」
何かぶつぶつと独り言を言っている先生が僕を呼ぶ。どうやら遺体の首の裏を眺めているようだが、そのいつになく大きく見開かれた瞳はキラキラと輝いている。
「……なんですか?」
意図が読めず、キョトンとした顔で僕もそこを覗き込むと、陶器のように蒼白い遺体の首の裏に、ぽつんと一つ、直径一ミリにも満たないくらいの小さな赤い点が穿たれていた。
「これは……?」
「御林君、わかりましたよ。犯人が青酸カリを飲ませた方法が」
「青酸カリを飲ませた方ほ……ええっ!? ほ、ほんとうですか?」
また、さらっと爆弾発言をかましてくれる先生に、今度は僕の方が大声を上げる。
「正確にいえば、飲ませたというのは間違いですね。注射器ですよ。犯人は注射器を使って、青酸カリを被害者の体に直接注入したんです!」
微妙に興奮気味な先生の瞳が見つめる先には、その首筋の赤い点がある……ということはつまり、犯人はここに注射器の針を突き刺して青酸カリを注射したということか!
いや、しかし……。
「で、でも、確か青酸カリって飲まなきゃ効かないとか聞いたような気が……」
「ええ。世間じゃそういう風に言われることもありますね。でも、実際には直接体内に注入しても普通に中毒反応を起こすんですよ。そして、致死量に達すれば当然死に至ります」
「えっ? そうなんですか?」
僕の浅はかな知識による反論を、先生はいとも簡単に否定する。
「青酸カリ入りの飲み物を飲ますのはなかなか難しいですが、これならば簡単に青酸カリで殺すことができます。まあ、多少は注入してから死ぬまでの間に暴れられるかもしれませんがね。後は遺体の口やダミーの容器などに少量を塗りつけておけば、その青酸カリをあおって死んだんだな…と、みんな騙されるわけです。状況からして、梨花子さんの時は水に混ぜられたものを飲んだとみた方がよさそうですが、おそらく薫君や咲子夫人、さらにもしかすると茂氏の場合も、この方法だったんじゃないでしょうか?」
一気に早口で解説をする先生の声に、僕はただ呆然と耳を傾けている。
それが、三人を殺した殺害方法……確かに、それならば毒入りの飲料を勧めて疑われるようなことはなく、油断している被害者を背後から仕留めることができる。
……ん? いや、でも、ちょっと待てよ。
僕は、そこでうっかりスルーしそうになっていた、とても重要なことを今さらながらに思い出した。
「えっ!? ってことは、薫君も自殺じゃなく誰かに殺された?」
「もちろんです。真犯人は他にいます」
これまで、なんやかやと言い淀んでいた先生が、今度ははっきりとそう言い切った。
「い、いや、でも、だったら犯人は!? 誰か他に動機のあるような人間は……ハッ! もしかして柾樹さん? でも、僕が実験した結果、薫君の部屋ならともかく、柾樹さんの部屋からではあの密室トリックが……」
僕はやや混乱気味に、それでもなんとかその事実を否定してみようと試みる……自分でも本当は、それが揺らぐことのない真実であるとわかっているのだけれど。
「あの密室トリックについても、もう一度、初めから考え直してみる必要がありますね。それから、梨花子さんの水差しに誰が青酸カリを入れることができたのかも」
「秋津先生、カメラをお持ちしました」
そこへ、タイミング良くというべきか悪くというべきか、例のクラシックな二眼レフカメラを持って藤巻執事が戻ってきた。
「ああ、藤巻さん。いいところに戻ってきました。もう一つお願いしたいことがあるんですが」
どうやら先生にはタイミングが良かったらしく、執事の顔を見るなり新たな頼み事をする。
「え? ああ、はい。私でできることでしたら」
「では、ついでですんで、代わりに現場の写真を撮っておいてください」
「ええっ!?」
突然の願いにも快く首を縦に振ってくれる優秀な執事に、遠慮のない先生は予想もしなかったであろう、とんでもないことを簡単に依頼する。それにはさすがの藤巻執事も戸惑っているが、そりゃあ戸惑うだろう。
「それではお願いします。じゃ、御林君。行きますよ」
だが、困惑する執事もお構いなく、先生は僕を促すと逸る気持ちを抑えながら、どこかへ向かおうとすでに歩き出している。どうやらそのために僕ではなく藤巻執事に頼んだみたいだ。
「えっ!? 行くってどこへですか?」
「他の二人の遺体も調べ直しにですよ。二人にも薫君と同じ傷があるかどうかをね――」
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