十一 突然の幕切れ(1)

 その日の朝は、とても静かだった。


 僕は目覚ましもかけていないのに、いつもよりかなり早くに目が覚めた。寝覚めがよいというよりは、この屋敷に来てからの怒涛のような出来事に、どうにも浅い眠りしかできなくなっているのだ。


 この数日というもの、朝、目を覚ます度に死体が一つ増えていっている……。


 もともとは密室で亡くなった本木茂氏の死の真相を調べに来たというのに、その事件が解決されるどころか、今ではその妻の咲子夫人、さらに茂氏からすれば姪に当たる花小路梨花子さんまでをも巻き込む、一大連続殺人事件へと発展してしまったのである。


 これでは名探偵秋津影郎の面目丸潰れだが、そんなくだらない見栄や体面なんかよりも、人として、もうこれ以上、誰かが死ぬのを見たくはない。一刻も早く犯人を捕まえなくては……。


 だが、昨夜の先生の忠告が功を奏してか、今朝はもう、さすがに死体が見つかるようなことはなさそうだ。


 それに、もしも僕の推理通り薫君が犯人だとすれば、梨花子さんの場合は何か突発的な理由からのものだったとして、本来、殺すべき動機を抱いていた茂・咲子夫妻はもうこの世にはいないのだ。最早、他に犠牲者が出るようなことはないと安心してもよいのかもしれない。


 ……いや。そう、安心をしたかったのだ……そう、心の中で願っていたのである。

 

 …ドン! ドン! ドン! ドン! ドン! ドン…!


 だが、その切なる僕の願いも、突然の静寂を破るノックの音によって木っ端微塵に粉砕されてしまう。


 また、なのか……。


 それまでがあまりにも静かすぎたために、ノックの音がよりいっそう耳障りに木霊する。


「先生っ! 秋津先生っ!」


 ドアの外では、今日も柾樹青年が先生の名を叫んでいる……もう驚きもしない、聞き慣れた感さえあるいつもの声だ。


 座っていたソファから腰を上げた僕と、洗面所で髪を整えていた先生がドアへ向かうのは同時だった。


「また誰か殺されたのですか?」


ドアを開け、ここ三日ずっと見ている蒼白な表情の柾樹青年に先生が問いかける。


「い、いえ。それが、今回は少しばかり状況が違うようでして……」


 だが、なぜか彼は歯切れの悪い妙な言い方で、途惑いながらその質問に答える。


「状況が違う? どういうことです? 誰かがまた殺されたんじゃないんですか? そうでないとすれば、今度はいったい何が?」


 どうにも要領を得ないその返事に再度先生が問い質すと、柾樹青年は一息吐いて心を落ち着かせてから、静かに、こう答えたのだった。


「薫君が、自殺しました――」




 そこは、食堂があるのとは反対側――屋敷の東側の庭に建てられた、ガラス張りの温室の中だった。


 僕らがよく使わせてもらっている応接間からも見える位置にある。


 白い霧の中に立つ半透明の建物に入ると、外気よりも幾分温度の高い、生育される植物の青臭さの混じった生暖かい空気に包まれて、彩華夫人以外の家族達が今朝もまた集まっている。


 僕らが入って行くと、皆、何も語らず、無表情のままに僕らの方を振り返る。


 そして、その観客らの間を縫って視線を向けたその先には、昨日と変わらぬ白シャツ姿の薫君が、冷たい地面の上に無残な姿を横たえていた。


「失礼します」


 そう短く一言断り、先生が遺体の方へと近づいて行く。


「し、失礼します」


 僕も同じように断りを入れ、家族達の間を抜けてその後を追う。


 地面と同じくらい冷たくなった薫君は、悲痛な表情で目を開けたまま、右手に茶色いガラス小瓶を握って仰向けに倒れていた。


 先生が小瓶に顔を近づけて注意深く臭いを嗅ぐ。その後、何もコメントはしなかったが、聞くまでもなく青酸のアーモンド臭がしたのだろう。


 それから丹念に遺体の顔を眺めると、腕時計をちらと見やって言った。


「亡くなってからおよそ6時間~7時間あまり。死亡推定時刻は昨夜の11 時~12時にかけてといったところですね」


 僕は、生物ではなくなってからすでに四半日を過ぎてしまっている薫君の肉体を見下ろす。


 手に持った青酸カリの小瓶……この状況からして、普通に考えれば自殺である。


 ……でも、本当に自殺なんだろうか? 茂氏や咲子夫人の時だって、そうした自殺に見せかける偽装がなされていたのだ。


 そう思い、近くにある植物の鉢植が並べられた台の方へ目をやると、丁度、遺体の真上に当たる場所だけが鉢植を抜き取ったかのような空間となっており、そのぽっかりと空いた台の上には何やら白い紙切れが一枚、これ見よがしに置かれていた。


「先生、そこに薫君の遺書が……」


 すると、柾樹青年がタイミングよくその紙切れを先生に指し示す。


 近くに寄り、その紙切れを覗き込むと、それは不定形な大きさをした便箋用紙であり、そこには――




 やはり、僕の実の父親は本木茂ではなく、僕が生まれる前に死別した、母の最初の夫である秋野景一だったようです。


 だから、父――実は血の繋がっていなかった本木茂は、まるで自分の子供ではないような余所々〃しい態度で僕に接していたのですね。否、実際に自分の子ではなかったのですが。


 そして、そんな父に遠慮してか、母も僕を遠ざけるようになり。


 しかし、僕にはもう一つ、疑念を抱いていることがあります。


 もしかしたら、僕の実の父は、茂・咲子の父母に殺されたかも知れないのです。


 偶然、僕は二人が話すそんな話を聞いてしまったのです。


 当時の貧しい母の状況を考えれば、それも致し方のないことだったのかもしれませんが、なんとも悲しく、惨たらしいことです。


 こんな醜い家庭の事情に巻き込んでしまい申し訳ありません。


 そして、育ててくれた父母に恨みを抱かずにはおれない僕をどうかお許しください。




 ――という文章が、余白がないほど紙面いっぱいに書かれていた。


「これは……」


 明らかに遺書である。文面は昨日、僕の見た手紙のものによく似ているし、その字にもやはり見憶えがある……おそらく、薫君の書いたものに間違いないだろう。


 さらに、その便箋の下にも何やらもう一枚、紙が置かれている。


 ポケットから取り出したハンカチで指紋がつかないよう、用心深く僕がそれを捲ってみると、その下にあったのはやはり昨日、僕が目にしたあの血液検査結の紙だった。


「先生、遺書が残っていますから、今回は…薫君は本当に自殺ってことなんですね?」


 押し黙り、ずっと遺書の上に視線を落としている先生に柾樹青年が尋ねる。


「……え? ああええ、まあ、この状況からするとその可能性ば高いかと……」


 文面に見入っていた先生は、突然問われて少し言い淀みながらそう答える。


 だが、その後すぐに調子を取り戻すと、皆の顔を見回しながらいつものように質問を口にした。


「あの、その前に二、三確認しておきたいのですが、どなたか知っていたら教えてください。まずは薫君の血液型なんですけど、やはり彼の血液型はO型だったんですかね?」


「あ、はい。私は何かあった時のために皆様の血液型をすべて心得ておくようにしておりますが、確かそのようだったと記憶しております……あのう、やはり薫様は、そこから茂様が実の父親ではないとお知りになったのでしょうか?」


 先生の質問に答えたのは藤巻執事だった。すでに遺書の中身を見て、おおよその事情を理解しているのであろう。彼はそう答えるとともに、逆に先生へも尋ね返す。


「ええ。この遺書の内容や添付されている血液検査の書類からしても、おそらくはそうだったんでしょうね」


 薫君の血液型は、どうやら先生の読み通りであったらしい。つまり、彼が茂氏の実の息子でなかったというのは本当のことだったのだ。


「この、ここに書かれている梅宮医院というのはどこかお近くの病院なのですか?」


 先生は続けて、検査結果の紙に記されている病院名について執事に尋ねた。


「ああ、それでしたら近くではないのですが、花小路家の御親戚筋に当られる梅宮様のご病院です。以前より当家では何かとお世話になっておりまして、桜子様が女学生時代、学校へお通いになられるのにも下宿させていただいたりなんかと……きっと薫様も、そうしたご関係から梅宮医院をお頼りになられたのではないでしょうか?」


 ああ! この前、桜子さんが言っていた親戚の病院というのはそこか! そうか……それがこの血液検査を行った病院でもあったわけだ……。


 予想外にも繋がった話に、僕は心の中でポン! と手を打つ。


 まあ、薫君がこの検査をするに当って彼女に協力を求めたのであれば、それも当然と言えば当然の成り行きだ。実際は執事の言うように薫君本人が頼ったというよりも、薫君に頼まれた桜子さんがその梅宮医院に検査を依頼したというのが本当のところなのだろうが……確かに桜子さんとしても、どこか病院へ依頼するとしたら、迷わずその縁故ある病院を選ぶことだろう。


「そうですかあ。そこでこの血液検査を……」


 先生は温室の片隅で呆然と立ち尽くす桜子さんの方を見つめながら、何か思うところでもあるように呟くと、さらに家族達への質問を続ける。


「では次に、もう皆さんも遺書を読まれてご承知かとは思いますが、薫君は茂氏と咲子夫人の二人が実の父親である秋野景一氏を殺したのではないかと疑っていたようです。そのことについてなんですが、そのように感じるような節は何かあったんですかね? それに、なぜ茂氏は薫君が実子でないことを本人には伏し、嫌々ながらも彼を跡取りにしようとしていたのでしょうか? そこら辺の事情をどなたかご存知でしたら…」


「秋野景一……咲子が駆け落ちしたという前の夫か」

 それに答えたのは、予想外にもいつもは寡黙にしている幹雄氏だった。


「駆け落ち?」


「若気の至りというやつだ。妻に聞いたところによると、その男は貧乏な画家でな。咲子もそれなりの旧家の出だったんじゃが、若さゆえの愚かさに、そんな貧乏画家と良い仲になって家を飛び出したんじゃそうな。じゃが所詮、小娘の恋など一時の気の迷い。逃げた先で結婚したはいいが、すぐにその貧しさに耐え切れなくなり、毎日その男をなじっては暮らす荒れた生活を送っとったらしいわ」


 なるほど。それが咲子夫人の前の夫か……しかし、あの咲子夫人にもそんな恋に燃える若かりし頃があったとは……人はわからないものである。


 意外なその過去にちょっと彼女を見直す僕であったが、その間にも幹雄氏の昔話はいよいよ本題に突入する。


「そこへ現れたのが妻の兄の茂じゃ。あれでも咲子は若い頃美人だったんでな、いわゆる一目惚れじゃ。咲子の方にしても本木の家はそれなりの資産家。その跡取りともなれば、貧乏に困窮していたんじゃから一も二もなく飛びつくわい。しかもその頃、寄寓にも秋野が突然死んだんじゃな。心臓麻痺だとか言っていたか……ま、そうして咲子は茂と再婚し、薫の坊主が生まれたというわけなんじゃが……そうか、あれからすぐに生まれたということは、薫が秋野の子だったとしても別におかしくはないわな」


「そうですか……では、時期的にも薫君が秋野景一氏の子供である可能性が高いわけですね。あの、その後、ご夫婦にお子さんは…」


「ああ。生まれんかった。じゃから茂も薫が自分の子でないとわかっていながら、やむなく跡取りにしようと思ったんじゃろうよ。先生、おわかりになるかどうかわからんがの、下々と違ってわしらのような古くからある家にとっては、跡取りというものがたいそう重要なんじゃよ」


 また前時代的な発言をしながら、幹雄氏は柾樹青年の方へ目をやる……その視線に本人は気づいていなかったが、彼もまた、旧家の跡取り確保のためにこの屋敷に呼ばれて来た存在だ。


「ま、それはそうと、薫はその話をどこかで聞いて、それで両親に疑いを持ったのかもしれんな。今から考えてみれば、確かに秋野の死は時期的に都合がよすぎるからの」


 確かに……事実はどうかわからないが、僕のような他人が聞いても、秋野景一氏が茂・咲子夫婦に殺されたのではないかと勘ぐりたくもなるような話である。


 これに、さらにあの血液検査の結果が加われば……薫君が両親に殺意を抱いたとしても、それはむしろ自然なことかもしれない。


「フン! けっきょくは本木の家の内輪揉めじゃったか。そんなものに花小路家を巻き込みおって、挙句の果てにはうちの娘まで……じゃから、わしは余所者を家に入れるのには反対じゃったんじゃ!」


 この家の主――花小路幹雄氏が、薫君の遺体を侮蔑の目で見つめ、そう、吐き捨てるように毒吐く。


「だが、これで事件も解決じゃな。秋津先生! あんたが何もせぬうちに事件は勝手に終わってしまいましたぞ。どうやら名探偵という話も怪しいものですな」


 さらに幹雄氏はそんな嫌味を先生に投げつけ、まるで薫君の死には関心がないかのような態度でさっさとその場を後にしてゆく。


「まさかそんな、薫さんが犯人だったなんて……」


 それとは対照的に僕らの背後では、真っ青い顔をした桜子さんが口に手を当てて呆然と立ち尽くしている。


「でも、これでもう人が死ぬことはないんですよね……」


 そのとなりでは、驚きと安堵がない交ぜになったかのような微妙な表情で、柾樹青年が溜息にも似た声で呟いている。


「この霧が出てから今日でもう三日。おそらく明日辺りには晴れるでしょう。そうすれば警察の方々にも来ていただけます。やっと……やっと、この屋敷にも平穏が戻ります!」


 さらに他方では、温室のガラス壁の向こうに漂う白い霧を見つめ、この事件の完全なる終わりが近いことを藤巻執事が予感している。


 反応はそれぞれ違えども、皆、薫君が犯人であり、彼が自分の罪を悔いて自殺したということで一連の騒動に解決をみているようだ。


 確かに遺書もあるし、これまでにわかった事実からしても、彼が犯人である可能性が一番高い。まだ、僕としても半信半疑ではあるのだが……きっと、それが真相なのだろう。


 ………なんか、あっけなく終わっちゃったな。


 僕は、密室から始まった不可解な事件の突然の幕引きに、なんだか拍子抜けしてしまった。

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