九 秘密の手紙(2)

「――すみませんねえ。もう二、三、お訊きしたかったことを思い出しまして。ああ、ここじゃなんですから、また応接間にでも行って、熱い緑茶でも飲みながら」


 薫君の部屋を訪れた先生は、先程、開放したばかりの薫を刑事コロンボみたいな口調で再び誘い出してゆく……。


 生気のない眼をした薫君が先生の後について部屋を出て行くのを窓の外から見届けると、僕は静かにその窓を開け、彼の部屋へと忍び込んだ。


「スタ…っと」


 僕はスキージャンプの選手を真似て床に着地し、思わずコミカルな擬音を口にする。


 先生が僕に提案した〝とんでもない密命〟――それは、僕が薫君の部屋に忍び込み、何か彼と彼の両親との間にある秘密を知るための手がかりがないか、部屋の中を無断で物色してみるというものであった。


 もちろん、それは部屋の主が留守の時でしかできないことなので、先生がなんやかやと口実をつけて彼を誘い出し、その間、僕は部屋の外に立てかけた梯子の上に突っ立ったまま、彼らが出て行くのを二階の窓の下でじっと待っていたのである。


 ちなみに窓の鍵は先生が部屋の中にズケズケと押し入って、さりげなく見つからぬよう外していってくれた。


 食事で箸の上げ下げをする以外、滅多に自分では動こうとしない先生であるが、たまにそれくらいの肉体労働ならばしてくれる……これを一般的に肉体労働と呼ぶかはいささか疑問だが……。


 ともかくも、先生が〝忍者にでもなってもらいますかね〟と言っていたのはこういうことだったのだ……てか、これでは忍者というよりも普通に泥棒って感じである。


 だが、そう思いつつも薫君が帰ってくる前にさっさと仕事を片付けねばならないし、それに僕の好奇心も手伝ってか、いつの間にやら手はすでにそこら辺の本棚やら机やらを漁り出している。


「……ん?」


 そして、机の引き出しを調べ始めると、間もなく僕は一通の奇妙な封筒を発見した。


 それは、何の変哲もない、手紙を出す時に使う茶色の細長い封筒である。


 だが、奇妙なのはその表に宛先の住所などは書かれておらず、その代わり「桜子さんへ」とだけ書かれていることだ。また、裏を見てみると、こちらもただ「薫」とだけ差出人が簡単に記されている。


 僕は〝桜子さん〟というその文字に、ドキリと心臓を鷲掴みにされたかのような衝撃を覚えた。


 もしかして、これって、ラブレター……とか?

いや、この無骨な封筒からしてまずそんなこともないのだろうが、そうして卑屈に勘ぐるような醜い感情が、理性に反して僕の中に広がってゆく。


 その封筒には、まだ、封がされていない……だが、僕はしばし、その封筒の中身を調べることを躊躇する。


 封筒は一番上の引き出しの中に、まるで投げ込むかのような格好で入れられていた。


 もしかしたら、さっき先生が部屋に来る直前まで彼はそれを見ていて、突然の来訪者に慌てて机の中に隠したのかもしれない。


 そうした状況も、そして僕の直勘も、その封筒の中身が彼の秘密を知る重要な手がかりになるであろうことを心の深い部分で囁いている……しかし、その一方で、そこに記された桜子さんの名が、中を覗き見ることを拒ませようと僕の倫理観に呼びかけているのだ。


 それでも、僕の中に潜む探偵助手としての好奇心がそんな倫理観を圧倒し、しばしの葛藤の内に気がつくと、僕の指先は封筒の中にある一枚の便箋を摘み出していた。


 罪悪感を感じつつも、便箋を開く……。


 と、そこには次のような文面が記されていた。




 桜子さんへ


 先日は僕のために御足労下さり、ありがとうございました。


 他に頼れる人もなく、思い切って貴女にお頼みしたのですが、今ではそれが正解だったと思っています。


 このようなことになってしまった後でなんですが、おかげさまで、例の検査結果を見るにつけ、長年、僕が思い悩んでいたことの理由がはっきりといたしました。


 その真実を知るのは悲しいことではありますが、なぜか心の内にあったもやもやとした霧が晴れたような、そんな爽快感を覚えているのも事実です。


 やはり、僕の実の父親は本木茂ではなく、僕が生まれる前に死別した、母の最初の夫である秋野景一だったようです。


 だから、父――実は血の繋がっていなかった本木茂は、まるで自分の子供ではないような余所々〃しい態度で僕に接していたのですね。否、実際に自分の子ではなかったのですが。


 そして、そんな父に遠慮してか、母も僕を遠ざけるようになり。


 しかし、僕にはもう一つ、疑念を抱いていることがあります。


 もしかしたら、僕の実の父は、茂・咲子の父母に殺されたかも知れないのです。


 偶然、僕は二人が話すそんな話を聞いてしまったのです。


 当時の貧しい母の状況を考えれば、それも致し方のないことだったのかもしれませんが、なんとも悲しく、惨たらしいことです。


 こんな醜い家庭の事情に巻き込んでしまい申し訳ありません。


 そして、育ててくれた父母に恨みを抱かずにはおれない僕をどうかお許しください。


 改めて、お詫びと御礼を申し上げます。


 これまでのこと、どうもありがとうございました。


                                 本木薫

 

 追伸 


 今まで黙っていましたが、このような事態となりましたのでお話しします。


 じつは、僕もあなた同様、あの不開の間の秘密を知っています。


 以前、偶然にも僕はそれを見てしまったのです。


 しかし、あなたにご迷惑がかかるといけないので、このことは二人だけの秘密として、他の者には黙っているつもりですので、ご安心ください。




 ……それは、ラブレターではなかった。

 

 そのことに、僕は密かに胸を撫で下ろす。


 だが、今はそれどころではない。そんな女々しい自分をちょっと嫌悪しつつも、僕はもう一度、その手紙の文章を読み返してみる。


 ……これは、えらいものを見つけてしまった。


 薫君が、本木茂氏の実の子供じゃない!?


もしかしたら、薫君の実の父親は茂氏と咲子夫人に殺されたかもしれない!?


 そこに書かれていたのは、僕の想像を遥かに上回る、とんでもない彼の秘密だったのである。


 梨花子さんが聞いたという、茂氏の〝あいつに本木の家を継がせるのは不本意だ〟という発言は、つまり、そういう意味だったのだ。


 それならば、薫君と茂・咲子夫婦の間にあったギクシャクとした親子関係というのも充分頷ける。しかも、その手紙の内容からは、薫君が両親に対して殺人を犯すほどの動機を持っていたことも容易に想像させられるのである。


 でも、〝例の検査結果〟ってなんのことだろう? もしかしたら、それに関するものもこの近くにあるかもしれない……。


 そう考えた僕は、手紙を机の上に置くと、再び机の引き出しの中を漁り始めた。


 すると、やはり同じような茶色い封筒に入った二枚の紙切れがすぐに見つかる。僕は急いでそれを引き出すと、期待を込めた面持ちでその紙面に見入った。


 見ると……それは茂氏と咲子夫人の血液検査の結果が書かれた用紙だった。


 やけに古い書式で書かれたものだが、ちゃんと病院で調べてもらったものらしく、その形式化された紙の上方には〝梅宮医院〟という病院名が擦れたインクで印刷してある。


「茂氏がBB型で、咲子夫人はBO型か……」


 他にも「RH+」だとか、いろいろ細かいことが書いてあるが、医学の知識のない僕にもわかりやすかったのは、検査結果表のABO式分類の欄だった。


 ABO式分類による血液型は、赤血球のA・B・Oいずれかの性質を持つ一対の染色体の組み合わせによって決まる。


 つまりはAA・AO・BB・BO・AB・OOという六種類の組み合わせが存在するわけだが、そのA・B・Oの遺伝子の間には、血液型を決定するのに優性、劣性の差がある。AとBならばどちらも対等だが、OとA・Bとでは、A・Bに対してOは劣性遺伝するのだ。なので、例えばAO型――AとOの遺伝子を持っている場合、Aが優性なのでOの性質は隠れ、血液型はAになる。いわゆる「メンデルの法則」というやつだ。


 そして、そうなると、かなり特別な例外を除き、両親の血液型の組み合わせによって絶対にそうはならない子供の血液型というのがある。


 BBの茂氏とBOの咲子夫人の例でいけば、A型やAB型はもちろんだが、劣性遺伝であるO型の子供も生まれないということだ。薫君の血液型がわからないのでなんとも言えないが、もしかしたら彼は、そのことから茂氏が実父でないことを確信したのかもしれない。


「……いや~すみませんねえ。何度もお呼び立てしてしまって」


 そんな時、ドアの向こうの廊下から、先生の間の抜けた声が聞こえてくる。


 時間稼ぎのための会話が終わって、薫君が帰ってきたのだ。それを僕に知らせるために、先生はわざと大声を出しているのである。


 その声に、僕は慌てて手紙と書類を元の場所にしまうと、急いで窓から外に出てそのガラス戸を閉めた。


 と、同時に薫君が部屋へと入ってくる。まさに間一髪である。僕は窓の外で身を屈めながら、心臓が口から飛び出すかと思うくらい動悸を激しくさせていた。


「では、失礼いたします」


 それでも、そのまま僕は梯子の上に留まって、こっそり中の様子を覗い続ける。中ではちょうど先生が謝辞を述べ、部屋を後にするところである。


 先生がドアの向こうに消えるのを待つと、薫君は何を思ったか、先程、僕の調べていたあの机の方へと近づいて行く……そして、案の定、彼はその引き出しの中から例の手紙の入った封筒をおもむろに取り出した。


 僕は盗み見たことがバレやしないかと、それはもう気が気ではなかったが、どうやらそんなことには気づく様子もなく、薫君はただただ虚ろな視線を手に持った茶色い封筒の上へと落としている。


 ……彼は今、何を思って、それを眺めているのだろうか?


 そこまで読み取ることはできなかったが、その顔には悲しみとも、疲れとも、諦めとも取れぬ、なんともいえない表情を浮かべている。


 それからしばらくの間、薫君は身動ぎもせずずっとそうしていたが、意を決したかのように深い溜息を吐くと、手紙の入った封筒に封をし、それを持ってとぼとぼと自室を出て行った。


 それを見て、僕は転がり落ちるように梯子を駆け降り、とりあえず梯子は庭の隅に隠して、全速力で彼の先回りをしようと走り出す。


 手紙に書いてあった宛先からして、薫君は桜子さんの部屋へ向かったに違いない。


 屋敷の外壁をぐるりと回り、玄関を駆け抜け、息を切らして薫君の部屋とは反対側の廊下まで行く。すると、案の定、彼が桜子さんの部屋の前へやって来ていた。


 全力疾走したことによる苦しい息遣いをなんとか押し殺し、廊下の角に隠れて見ていると、薫君は周囲に人がいないのを確認し、そっと、持ってきた手紙を桜子さんの部屋のドアの隙間から中へと投げ入れ、その場をそそくさと立ち去ってゆく。


 内容が内容だけに、きっと、このことを桜子さん以外の者には知られたくないのだろう。


「こりゃ、えらいもの見ちゃったよ……」


 僕は、薫君がその場から立ち去るのを見届け、先生が待つ応接間へと再び急いだ――。

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