九 秘密の手紙(1)
「――昨夜、7時半~10時までの間ですか? いいえ。わたくしその間、ずっと自室で読書をしていましたけれど、誰も梨花子の部屋を訪れたような様子はありませんでしたわ」
事情聴取は昨日と同じように応接間で、姉の桜子さんから始められた。まずは昨夜、梨花子さんが部屋に戻ってから死ぬまでに誰かが彼女の部屋を訪れていないか確認する必要があったからである。
夕食の後の一騒動が静まり、皆が解散したのが7時半。その後すぐ桜子さんは自室に戻ったようだが、それから梨花子さんの死亡推定時刻――遅くとも10時までの間、彼女は妹の部屋に誰かが入るような気配はまったく感じなかったそうだ。
桜子さんの部屋は、梨花子さんの部屋の向って左どなりにある。もしも誰かがドアをノックしたり、前の廊下を歩くようなことがあれば、確実にその音を聞いていたことだろう。
梨花子さんの部屋の右どなりは故茂・咲子夫妻の部屋で、もちろん今は空室だ。この屋敷二階東側にはこの三部屋しかないので、つまり、桜子さんの話を信じるならば、梨花子さんが自室に入り、鍵をかけて寝た後には誰もあの部屋に近付かなかったということになる。
これについては付け加えると、少し話が前後してしまうが、二階北側に位置する寝室にいた幹夫氏も、その頃に何か怪しい物音を聞いたというようなことはなかったと後に証言している。
こうなると、やはり先生の考え通り、水差しに青酸カリを入れるチャンスはあの二人か、もしくは外部犯――あの〝人影〟の人物にしかない。
ちなみに夕食後、朝まで自室にいたという桜子さんにもアリバイやその証言を立証する手立てはないが、その後、昼食を挟みながら聴取を行った幹雄氏、彩華夫人、柾樹青年についてもほぼ状況は一緒で、今回もアリバイについて言えば、皆、ないに等しい。桜子さんに付き添われながら聴取を行った彩華夫人にいたっては、娘の死のショックに心神喪失し、ほとんど何も聞くことのできない有様だった。
しかし、先生の推理したように梨花子さん自身の手で密室ができ上がったのだとすれば、そうしたその後のアリバイは一切関係なく、問題なのはごくごくわずかの間――二人以外全員が食堂に集まっていた、あの時間内のアリバイに限られる。
そして、いよいよそのアリバイがない、最も重要な二人の人物の内の一人、藤巻執事から話を聞く番となった。
「い、いえ、わ、私は断じて水差しに青酸カリなど入れてはおりません!」
水差しに青酸カリが入っていたことを告げた瞬間、執事はひどく狼狽した様子で、自分の犯行ではないことを訊く前に自ら切り出した。
だが、それは何かやましいところがあるからというのではなく、己に容疑がかかっていると思ったら誰しもがそうなるであろう、むしろひどくまっとうな自然の反応である。
「いえ、別に疑っているわけではないのでご心配なく」
そんな恐慌状態の執事に、反してのんびりとした調子の先生が微笑みながら言う。
「それよりも藤巻さん。昨夜、梨花子さんの部屋にお水を持って行かれた時のことをもう一度詳しく聞きたいのですが、その時、あなたが部屋を出た後で、梨花子さんはすぐに鍵をかけて寝てしまわれたんですかねえ? それとも、それからしばらく、まだ起きていたような様子でしたか?」
「え? ……あ、は、はい。あの、おそらくはですけれども、私が出た後、梨花子お嬢様はすぐにお眠りになられたかと存じます。私がドアを閉めた直後、鍵をかけるような音が聞こえたように思いますので……すみません。そんな不確かなお答えしかできませんで……」
先生の問いに、まだ若干取り乱してはいるものの、なんとか朧げな記憶を辿ると執事はそのように答えた。
「そうですか。では、あなたと一緒に食堂を出た薫君ですけれど、彼もそのまま自室に入って眠りについたようでしたか?」
「さあ? 昨日も申しましたが、私は薫様が二階に上って行くのは見たのですが、その後のこととなりますと……」
……そうか。そうなると、薫君が梨花子さんの部屋に行かなかったという証明は、ますます困難になってくるということだ。
「ところで、ちょっと気になったのですが、梨花子さんがあのように水差しを自室に運ばせるのはよくあることなんですかね? ご本人はいつものように言われていましたが」
僕が薫君への疑いを深める傍ら、先生は話題を変えて執事に再度質問をぶつける。
「はい。梨花子お嬢様はよく夜中にお起きになられるようでして、私がお水をお持ちするのはほぼ日課のようになっておりました。もっとも、いつもはあんなに早くお眠りにはなられませんでしたので、普段はもっと遅くにお持ちしていたのですけれど」
「なるほど……ということは、梨花子さんが夜中に水差しの水を飲むことは、この家の者なら誰でも知っていたということですね」
藤巻執事の明瞭な回答に、先生の眼がわずかに細くなる。どうやら何か気になることがあったらしいが、何を考えていたのかまではさすがの僕にも推し量ることはできない。
「ありがとうございました。では、もうけっこうですので、今度は薫君に来るように伝えていただけますかね」
そして、とりあえずは藤巻執事を帰すと、ついに大本命である薫君からの聴取を執り行うこととなったのである。
「――薫君。昨日、梨花子さんと一緒の時刻に自室へ戻ってから、今日の朝まで何をしていましたか? そのままお部屋でお眠りに? それとも、どこかへお出になりましたか?」
「……先生は、僕を疑ってるんですね?」
そのあからさまな質問に、虚ろな瞳で俯く薫君は力のない声でそう訊き返した。
まあ、こんなことを訊かれれば、誰だって自分が疑われているように感じるだろう。
「いえ、別に疑ってるわけではないのでご心配なく」
しかし、朗らかな微笑みを浮かべる先生は、先程、藤巻執事に言ったのと一言一句違わぬ、こうした時の常套句とも言える言葉を口にする。まるで心の籠っていないその言葉が本心でないことは明らかだ。
そんな先生の取って付けたようなフォローを聞いているのかいないのか、薫君は先程の質問にぼそぼそと答え始めた。
「昨日の夜はなんだかとっても眠かったので、部屋に戻ってベッドにもぐり込んだ後はすぐに眠ってしまい、気がつくともう今日の朝になってました」
床を見つめるその眼には相変わらず生気が宿っていない。その表情からだけでは、嘘を吐いているのかどうかは判断できない。
「そうですかあ……確かに昨日の夕食後はとても眠そうな顔をしていましたね。夕食後はよく眠くなるんですか?」
「いえ、いつもはそんなことないんですが、昨日は食後のお茶を飲んだ後、なんだかとても眠くて仕方なくなったんです。ほんとにもう、ベッドに入るなり眠りに落ちてしまうくらいに」
「ほう。そうなのですか。それは、ちょっと興味深いですね……」
どういう意図で訊いたのかわからなかったが、先生はその問いに対する薫君の答えに、なんだかとても満足したような表情をその穏やかな横顔に浮かべていた。といっても、これもよく先生のことを知っている者でしかわからないくらいの、極めてわずかな変化なのではあるが。
「時に薫君。話は変わりますが、君は死んだ君のご両親となんだか
おそらく昨日、梨花子さんが桜子さんに話していたことを確かめるためだろう、先生はまた、聞いているこっちの方がドキドキするような、そんな直球の質問をぶつけて薫君にカマをかける。
「……………………」
ところが、次の瞬間、薫君の表情が一変したのである。
それまで暗く沈んでいた顔からはさらに血の気が失せ、むしろ明るく見えるくらい真っ白な顔色へと変わってゆく……虚ろだった眼の瞳孔は死人のように見開かれ、その額には冷や汗すらも浮かんできているようであった。
「あ、あの、薫…くん?」
その過剰な反応には、質問をした先生の方が驚いてしまう。
今の言葉のどこに、それほどまでのショックを与える要素があったというのだろうか? 何気なく先生が尋ねたその言葉は、そこまで彼の心の闇の核心を突くものを孕んでいたというのか?
「……い、いえ、別に、何も…………」
しばらくの後、そう、なんとか声を振り絞って言うのが精一杯だったらしく、それっきり薫君は死後硬直したかのように黙り込んでしまった。
「いやあ、どうも、ありがとうございました。もういいですよ」
そんな薫君の様子を見て、先生はいつもの惚けた口調で彼を解放する。これではもう何を訊いても答えてはくれまい。
力なく椅子から立ち上がり、歩く死体の如くふらふらと応接間を出て行く彼の後姿を見送ると、僕は一呼吸おいてから先生に声をかけた。
「……どう考えても、別に何もないって感じじゃなかったですよね?」
「ですよねえ……」
彼の出て行ったドアをいまだに見つめたまま、先生もぽつりと呟く。
「あの動揺の仕方、尋常じゃないですよ! いったい死んだ両親との間には何があったんでしょうか?」
「さあ? 現段階ではまるで想像もつきませんが……そうですね。ここは一つ、御林君に
「はい?」
そして、やや興奮気味に尋ねる僕に対して、先生はとんでもない密命を与えるのだった――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます