八 第三の密室(1)

「――ふぁ~あ…っと!」


 まだ、若干肌寒い朝の空気を吸って、僕は大きく毛伸びをする。


 三日目の朝は昨日のように寝坊することなく、朝食に間に合う時間には起きることができた。


 窓の外を見ると、今もなお外界は深い霧で覆われている……藤巻執事が「この霧が出たら、しばらくは晴れることがない」と言っていたが、それはどうやら本当のことのようだ。


 白く霞んだ窓の外を見つめながら、昨夜見たあの人影のことを僕は思い出す。


 僕ら以外の人達にはけっきょく最後まで信じてもらえなかったが、こうして一夜明けてみると、本当にあれは幻だったのではないかと自分でも思えてきてしまう……だけど、やっぱり僕と先生は確かに窓の外を横切る人影を見たのだ。


 昨夜はあの後、そんな事件をきっかけに食後の家族団欒……と言っても皮肉にしか聞こえないような集まりもお開きとなり、僕らも自分達の部屋へ戻ると人影のことや、昨日新たにわかった事実についてもう一度話し合うこととなった。


 そこで先生は……。


「あれがこの家の者でないとしたら、外部の者の犯行という可能性もありですか……」

 

 と、やはり僕と同じ考えを示唆していたのだが、その一方で――


「でも、外部犯にしては自殺に見せかけた密室での毒殺なんて、えらく手が込みすぎているように思えますよねえ……」


 と述べて、あの人影の人物が事件に関与していることへの疑問を感じているようでもあった。


 しかし、だとすると、あの人物はいったいなんのために、あんな時刻にこんな山奥の人の家の庭にいたのだろうか? という、また違った不可解な疑問が湧いてきてしまう。


 いずれにしろ、昨夜の不審人物の登場により、柾樹説、薫説、外部犯説と、事件は解決に向かうどころか、よりいっそう混迷を深めるばかりである。


「さて、そろそろ7時半です。朝食をいただきに参りましょう」


 服を着替え、ぼんやりそんなことを考えていると、洗面所から出てきた先生がそう僕を促した。


 しんと静まり返った朝の屋敷内を、もうすっかり慣れ親しんだ食堂へと向かう。昨日は寝過ごしてしまったが、ここ花小路家ではいつも朝の7時半に朝食をとるのだそうだ。


「おはようございます」


 大きな観音開きの扉を開け、広い食堂に入るとまずはは皆に挨拶をした。


 そこにはもうすでにこの家の者達が集まっていて、いつものように長大なテーブルを静かに取り囲んでいた。ただし、亡くなった二人の席を除いては…である。


 ……いや、違う。よく見ると、席は昨日と異なり三つ空いている……それは、桜子さんと柾樹青年の間――梨花子さんの席だ。


「あれ? 梨花子さんの姿が見えませんね?」


 こんな状況であり、昨日の咲子夫人のこともあったので、ちょっと気になった僕は皆の顔を見回しながら尋ねた。


「昨日、夕飯の時にずいぶんと眠そうにしていましたから、たぶんまだ部屋で寝ているのでしょう。あの子もあの子なりにいろいろとあって、人前では見せないだけでそうとう疲れているのかもしれませんわね。そのうちにきっと起きてきますわ」


 すると、桜子さんが特に心配はしていないという様子でそんな回答をする。他の家族達も別段気にしている様子はない。どうやら事件と関連づけて考えるのは取り越し苦労のようだ。


 そうこうする内に、テーブルの上には欧米風のパンとスクランブルエッグとハムなどを主とした朝食の用意がすっかり整い、このお屋敷にはふさわしい優雅な、だが相変わらず陰鬱で重苦しい朝食が始まった。


 そして、20分も後には皆が食べ終わり、けして爽やかではない朝食も終わりに差しかかろうとしていたのだったが……それでもまだ、梨花子さんは姿を現さなかった。


「おかしいわね。まだ起きてこないなんて」


 かわいらしい眉根をひそめ、桜子さんが言う。


「そうね。あの子は滅多に寝坊なんかしない子なのに」


 ここにきて、ようやく彩華婦人も不審に思い始めたらしく、やや怪訝な面持ちでそれに答えて呟く。


「まさか!」


 僕の胸に嫌な予感が走った。いや、僕ばかりじゃない、先生はもちろん、柾樹青年や藤巻執事の顔にも明らかに不安の色が浮かんでいる。


 そして、その不安は桜子さんや彩華夫人、主人の幹雄氏、そこにいる全員へと徐々に伝播してゆく。


 僕、先生、柾樹青年の三人は同時に椅子から跳ね上がると、そこへ藤巻執事も加えて一斉に走り出す。


 行くべき場所は、誰も口にせずともすでに決まっている……こうした状況シチュエーションは、茂氏の時も含めればこれでもう三回目だ。


 そして、これまでの経験則上、そんな時にはいつも決まって、密室で新たな遺体が発見されるのである……そう。薫君の部屋と不開あかずの間に挟まれた、昔、柾樹青年の母が使っていたというあの部屋の中で。


「梨花子さん!」


 その部屋の前に辿り着くと、柾樹青年がドアに貼られた封印を剥がす間も惜しみ、ぶつかるような勢いで扉を開く。


 その後に続く僕ら残りの三人も、転がるようにして全員が部屋の中へとなだれ込む。


 だが、部屋に入った瞬間、僕らはその動きをピタリと止めてしまった。


 そこには……何も変わった様子はなかったのである。


 ひんやりと冷え切った部屋の床の上には、白いシーツで覆われた咲子夫人の死体が指一本動かすことなく静かに横たわっている……昨日とまったく同じ光景である。


 僕らが予想していたように、新たな死体がそこで見つかるようなことはない。それに封印はされていたものの、柾樹青年が開けた時の様子ではドアに鍵はかかっておらず、密室といえるような状態でもなかった。


 悪い予感の外れた僕らは、全員同じタイミングでホッと安堵の溜息を漏らした。


「ということは、まだお部屋で眠っておられるのでしょうか?」


 安堵とともに、若干、全力疾走したことによる疲弊の色を見せながら執事が尋ねる。


「ですかね……よかったです。悪い予感が外れて」


 先生も、同じような顔をしてそれに答える……まあ、先生の場合、走るのだけは得意なので、僕ら三人のように息は上がっていないけれど。


 ともかくも、どうやら精神が過剰になっている僕らのただの早とちりだったみたいである。


 …………しかし。


 一旦は安心したものの、次の柾樹青年の一言により、消えかけた僕らの胸騒ぎは再び頭をもたげ始める。


「でも、梨花子さんがこんなに寝坊するのは確かに珍しいですね……」


 寝坊するのは珍しい?


 ……そうだ。よくよく考えてみれば、普通ならこうした場合、こんな所には駆けつけないはずだ。二度の前例に引っ張られて最初にこの部屋が頭に浮かんでしまったのだが、もし、そうでなかったとしたら……。


「梨花子さんの部屋だ!」


 全員が声を揃えて一斉にそう叫んだ。そして、やはり同時に彼女の部屋目指して再び走り出す。


 梨花子さんの部屋は、この事件現場である空き部屋とは反対側の、廊下をぐるっと回り込んで屋敷二階の東側にある。そこには南北に三つ同じ間取りの部屋が並んでおり、その内の北側の桜子さんの部屋と南側の今は亡き茂・咲子夫妻の使っていた部屋に挟まれた真ん中の部屋が彼女のものである。


 全力疾走をすれば、一分と経たずに到着できる距離だ。


 僕らは北側の廊下を回り、書斎、幹夫・彩華夫妻の寝室の前を一気に駆け抜け、彼女の部屋の前へと辿り着く。


「梨花子さん! いるんだったら返事をしてください! 梨花子さん!」


 ドアの前に着くなり、ドン! ドン! と、けたたましい音を立てて柾樹青年がドアをノックする。


「梨花子お嬢様!」


 普段は冷静な藤巻執事も、いつになく声を荒げてドアに呼びかける。


 同時にガチャガチャと柾樹青年がドアノブを回してみたが、中からは鍵がかけられており、一向に開く気配はない。


 それからしばらくの間、けたたましいノック音と梨花子さんの名を呼ぶ声は響き続けたが、いくら待ったところで彼女がそのドアを開けることも、また、中から何か返事が返ってくることもなかった。


「やむを得ません。ドアを破りましょう」


 後から見守っていた先生が、最悪の事態を想定して僕らにそう提案をする。


「はい!」


「御林さん、行きますよ。いっせーのーで…」


 すぐさま僕と柾樹青年がそれに応え、鍵のかけられたそのドアへと息を合わせて体当たりを食らわせた。


 瞬間、男二人の質量弾に鍵は難なく破壊され、金具の取れかかったそのドアは渋い蝶番の音を立ててゆっくりと開かれゆく。


 その数秒の間、予測できない中の状況に、皆、息を飲む……いや、違うな。息を飲むのはきっと、その先に待っているであろう最悪の事態を僕らはすでに知っているからだ。


 そして、開かれたドアの向こうに僕らが見たものは……。


 またしても床の上に苦悶の表情を浮かべて倒れる、完全に冷たくなった花小路梨花子の姿だった――。

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