七 検証実験の後(3)

 昨日と変わらぬ、陰鬱で重たい静寂に包まれた豪華な夕食……。


 違っているのは、昨日よりもまた一つ空席が増えていることである。


 だが、人数が減ったのとは反比例するかのように、よりいっそう空気に占める猜疑心の密度は濃厚なものとなっている……なんとも食欲の湧かない食卓である。


 そういえば、よくよくこの建物の間取りを思い浮かべてみると、この食堂は本木茂・咲子夫婦が死亡した例のあの部屋の真下に位置している……そう考えると、ますます食べる気が失せる。


 それでも、料理だけはこの重苦しい空気を無視するかのように、花小路家の晩餐としては相応しい、一応、スープから始まる本格的なフランス料理だったりなんかする。


 家族が一人死んだというのにこの豪華さもどうかとは思うが、僕のような貧しい庶民とは違い、これが彼らの日常ではあるのだ。こうした非日常的状況においても日常の食卓を演じているところがまた、この家の住人達の淡白な人間関係を現していると言えるだろう。


 そして、そんな夕食後、昨夜もそうだったが皆に食後のお茶が振舞われた。


 そのような陰鬱とした空気の中にあっても、藤巻執事がそっと注いでくれる温かい芳醇な香りの紅茶に、僕はようやく心安らぐ一時を感じている。


 そんな一時を邪魔するかのように、となりの席では先生が「私は緑茶が飲みたいです」とかなんとか駄々を捏ねているが、まあ、放っておこう。


「はぁ~あ……眠くなりましたからお先に失礼させてもらいますわ」


 そんな中、おもむろに梨花子さんがあくびをしながら席を立った。


「藤巻、喉が渇いた時に飲みたいから、いつものようにお水を用意して、今すぐお部屋まで持ってきてくださる?」


 それから、お茶のおかわりを注いで回る藤巻執事の方を振り返ると、そう頼み事…というか命令をする。

 

「はい。かしこまりました」


 仕事柄、執事は深々と頭を下げて返事をするが、それもさも当然というようにそちらを見ることもなく、梨花子さんはもうすでにさっさと食堂から出て行ってしまっている。


 まさに我儘な金持ちのお嬢様って感じだ。同じ姉妹でも桜子さんとは大違いである。


「はぁ~あ……なんだか僕も眠たくなってきました。秋津先生、母が死んだこんな時になんですが、僕もこれで失礼させていただきます」


 そんな梨花子さんに続き、もう一人、早々に席を立つ人物がいた。薫君である。


「ああ、はい。お母様が亡くなられて、きっと疲れているのでしょう。どうぞお休みになってください」


 眠そうに目を擦る薫君に、先生が遠慮は無用とそう述べる。


 何気に食堂の隅に置かれた古めかしい大きな振り子時計に目を向けると、時刻はまだ7時である。


 寝るにはまだまだ早い時刻だ。一見、あまりショックは受けていないようでいて、じつは二人とも、それなりに精神的な疲れを感じているのかもしれない。


「それでは、お休みなさい」


「では、私もちょっと失礼いたします」


 挨拶をして食堂を後にする薫君に続き、藤巻執事も上座側――北側の壁に開いたドアから姿を消す。そのドアはとなりの厨房へと通じており、先程、梨花子さんに言われた水を用意しに行ったのだろう。


 そうして食堂には僕と先生、幹雄氏、彩華夫人、桜子さん、そして柾樹青年の六人が残された。


 この状況、このメンバーで、特に会話が弾むようなことがあるわけもなく、さりとて僕と先生がここで事件についての話し合いをするわけにもいかず、それから後はただただお茶を啜る音だけが響き渡る、なんとも微妙な感じの静かな時間が続いた。


 皆、ここに集まっていなければならない理由は別にないのだが、だからといって他にすることもない……詰まる所、惰性でそのまま残っているといった感じである。


 いや、それは今の時間についてばかりでなく、この屋敷に住まうこと自体に関しても言えることなのかもしれない。


「すみません。どうも失礼をいたしました」


 しばらくすると、用を済ませた藤巻執事が再び厨房側のドアを潜って戻ってくる。


 このの支配する中にあっては貴重なそのの事象に、そこにいる者達全員がそちらへと目を向けたのだったが……。


「…!?」


 そのドアの向かって左側に位置する、カーテンが少し隙間を開けている大きな窓の外、その外界の霧の中を横切る黒い人影が僕の目に映ったのである!


「せ、先生!」


 僕は驚いて目を見開き、一瞬の後、となりの先生の方を振り返る。


「藤巻さん! 梨花子さんと薫君は確かに自分の部屋に行きましたよね?」


 すると、先生も目撃した様子で、いつになく切れのある口調で藤巻執事に尋ねていた。


「えっ? あ、はい。梨花子お嬢様はお水をお持ちした時にお部屋におりましたし、薫様もお二階の方へ向かわれるのは見ましたけれど……」


 今、ここには幹雄氏、彩華夫人、桜子さん、柾樹青年、藤巻執事の、梨花子さんと薫君の二人を除くこの家の全員が集まっている……そして、その二人も現在自室にいるのだとすれば、窓の外を通ったのは花小路家の人間以外の人物ということになる。


 でも、いったい誰が? こんな山奥の個人宅の敷地内に? しかも、濃い霧が立ち込めるこんな夜に?


 どう考えても不審人物だ……もしも今回の一件が内部の者の犯行ではなく、外部の者の手による凶行なのだとしたら……。


「先生!」


「御林君、追いましょう!」


 僕らは同時に立ち上がると、慌てて食堂から駆け出そうとする。


「先生? 急にどうしたというんですの?」


 だが、そんな僕らの尋常ならざる様子を見て、桜子さんが怪訝な顔で呼び止める。


「外です! 今、外に怪しい人物がいたんですよ!」


 振り返り様、叫んだ僕のその言葉に、ようやくそこにいる全員がざわつき始めた。


「外に人が? わしは見とらんが他に誰か見たか?」


 しかし、訝しげに尋ねる主人の幹雄氏に対して、家族達は皆、同じく不思議そうな表情を浮かべて首を左右に振っている。


 どうやら、さっきの人影を見たのは僕と先生の二人だけだったようである。


 ……でも、おかしいな。藤巻さんが食堂に入って来る時に顔をそちらに向けたのだとすれば、方向からして、みんな見ていてもおかしくないと思うのだが……って、今はそんなことを悠長に考えている場合ではない!


「御林君、急ぎましょう!」


 立ち止まる僕を、すでに食堂の出入口まで行っている先生が急かす。


「はい!」


 そして、僕達は遭難する危険性も忘れ、深い濃霧の立ち込める夜の闇へと一目散に駆け出した。


 玄関を出て、窓から漏れる明りだけを頼りに食堂のある建物西側へと回り込む。広い庭園に外灯はなく、さらに濃いスモッグが月明かりをも遮断しているため、足元さえおぼつかないほど辺りは真っ暗闇である。


 それでも、もしかしたら犯人かもしれない不審人物の突然の登場に、僕らはその五里霧中の闇の中を食堂脇の目撃地点目指して懸命に走る。


 普段はおっとりしている先生も意外や足だけは速いのだ。まるで地面を滑るようにして足音もなく進み、すでに僕の数メートル前をかなりの速度で行っている……。


「――ハァ…ハァ……どこ行ったんでしょうね?」


 だが、そうして僕らが急いでその場所へとたどり着いた時にはもう、付近に怪しい人影は人っ子一人見当たらず、また、そこへ到るまでにも誰かと鉢合わせするようなことはまったくもってなかった。


「ふーむ、誰もいませんねえ……もう少し、この近辺も探してみましょうか」


 全力疾走も虚しく人影を見失う中、先生はそう提案してさらに周辺を調べてみることにする……だが、その霧と闇とに覆われた広い庭内で、誰か人の姿を見つけることはけっきょくできなかった。


 これ以上捜索範囲を広げるのは遭難の危険性もあるので得策ではない……なんの収獲もないまま、やむなく食堂に戻った僕と先生は、いまだ何が起きたのかわからない様子の人々に先程見た人影のことを改めて説明した。


 しかし、先刻同様、僕ら以外にそれを見たという者はなく、彩華夫人の言を借りれば……


 「きっと事件のことばかり考えていらっしゃるので幻を見たんじゃございませんこと?」


 というように、家族の誰も…桜子さんや柾樹青年でさえ、それを信じてくれる者はいなかったのである。


 ……そう。まるで僕らが見たものが、本当に夢か幻であったとでも言わんばかりに――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る