七 検証実験の後(2)

 桜子さんは僕を応接間に連れて行くと、素早く救急箱を取ってきて、早々に怪我の手当てを始める。


「私は藤巻さんに壁を壊してごめんなさいって言ってきますね」


 先生も心配して二階から駆け下りては来たのだが、そう断るとまたすぐに部屋を出て行ってしまったので、無駄に広い応接間には僕と彼女の二人っきりになった。


「他にも怪我してる所があったら、隠さず言わなきゃだめですよ?」


 擦り剥いた肘を消毒しながら、まるで僕の母か姉のように桜子さんが言う。


「は、はあ……」


 僕は熱を帯びた顔を俯かせ、そう生返事を返すことしかできなかった。


 だが、そうしてモジモジしながら手当てを受けていると、彼女の仕草が妙に慣れていることに気づく。


「あ、あのう、怪我の手当て、お上手ですね……」


 僕は、その気恥ずかしさを隠すのようにして、そのことについて尋ねてみた。


「……え? ああ、わたくしね、じつは以前、お医者様に憧れていたことがございましたの」


 その疑問に、桜子さんは顔を上げると少し照れた表情を見せて答えた。


「女学生の頃、遠い親戚で小さな病院を営んでいる家に下宿して、東京の学校に通っていたりもしたんですけれど、その時、人の命を助ける医師の仕事というものに憧れましてね。お恥ずかしながら、将来、お医者様になりたいだなんて思ったりしましたのよ。それで学校のお勉強そっち退けで、その親戚の病院のお手伝いをしたり、医学のことを少し学ばせていただいたりなんかもして……でも、けっきょくは両親の反対でその道へは進めなかったんですけれどね。わたくしの若い頃の良い思い出です」


 遠い昔を懐かしむような色をその瞳に映し、そう語り終えると彼女は屈託のない笑顔を僕に見せる。


 そのなんともかわいらしい微笑みに、ずっと彼女の顔を見つめていた僕はドキっとさせられ、思わず視線を床の絨毯に逸らしてしまった。


 また、僕の心臓はさらにその鼓動を打つ音を大きくし、顔に血が上ってカーッと熱くなるのを感じる。


 ……にしても、思いがけない桜子さんのこの行動には驚いた。


 先程、僕の手を引っ張って行った時もそうだったが、今の話を聞く分にもこの桜子さんという女性は、一見おとなしいお嬢様のように見えて、その実、自分がこうだと思うことに関してはとても行動的な側面も持ち合わせているようである。


「ところで御林さん。いったいあそこで何をしてらしたんですの?」


 彼女とこんなにも接近し、しかも傷の手当てなんかしてもらっていることに激しく動揺している僕であるが、そんな心の内に気づく様子もまるでなく、桜子さんが唐突にそんな質問を投げかけて来た。


「……え? あ、は、はい! あ、あの部屋を密室にするトリックとして、壁伝いにとなりの薫君の部屋へ逃げれないかなあ、なんて思って、その実験を……」


 突然の質問に、慌てた僕は正直にそう答えてしまう。本来なら、あまり彼女のような人には言わない方がよいことなのだろうが……。


「まあ! では、先生や御林さん達は薫さんが犯人だとお考えですの?」


 やはり、驚いた顔で彼女はそう訊き返してくる。


「あ、いや、まだ確信があるわけじゃ……ただ、その可能性を試してみただけでして……」


 さらに慌てて取り繕う僕だったが、彼女は何か物思いにでも耽るような眼差しをして呟く。


「薫さん……梨花子も叔父様達と何かあるようなことを言っていたけれど……ああ、いいえ。なんでもありませんわ」


 だが、僕の視線に気がつくと、ただの独り言だとでもいうように彼女は誤魔化した。その素振りからして、おそらくはさっき僕も盗み聞きした妹の話を思い出したのであろう。


「でも、落ちてしまわれたということは、壁伝いに薫さんのお部屋までは行けなかったということですのね? じゃあ、薫さんの疑いは…」


「いえ、薫君の部屋まではなんとか行けたんです。その後、もう一つの可能性である、さらにとなりの柾樹さんの部屋まで行くことも試みたんですが、そこで足場が崩れて…」


 心配そうに尋ねる桜子さんに、思わず僕はまた本当のことを答えてしまうのだったが。


「柾樹さんは犯人なんかじゃありません!」


 なぜだか急に、彼女は大声を張り上げた。


「………………」


 突然のことに、僕は呆然と目が点になる。


「お母様や梨花子はそう思っているようですが、そんなこと絶対にありえません! それに、確かに叔父様や叔母様達は柾樹さんにずいぶんと嫌がらせもしていましたが、あの人はそんな復讐心で人殺しができるような人じゃないんです!」


 桜子さんは、さらに声を荒げて僕に詰め寄る。


「ハッ! ……すみません。突然、はしたない声を出してしまいまして……」


 だが、唖然とする僕の様子に気づくと、顔を伏せ、トーンを落とした声で言い訳でもするかのように話を続けた。


「彼のお母様もそうでしたが、柾樹さんは可哀想な人なんです……お母様のお腹の中にいるうちにこの家を追い出され、子供時代はお母様と二人だけの貧しい生活を送り、その優しかったお母様も亡くなって、独り淋しい暮らしを始めたかと思ったら、今度はこんな悪意に満ちた家へ強引に連れて来られて……だから、わたしはあの人を守ってあげたいんです。そして、今度こそあの人を幸せにしてあげたいんです!」


 まるで柾樹青年や彼の母親の苦労を実際に見てきたかのように、桜子さんは再び声に熱を帯びると真剣な表情で僕にそう訴えかける。


 それは、腹違いと言えど姉が弟を思う姉弟愛からのものなのであろうが、僕は彼を懸命に守ろうとする桜子さんの態度に、先刻、梨花子さんとの言い争いを盗み聞いていた時と同様の、何か強い嫉妬心ジェラシーのようなものを感じずにはいられなかった。


「御林さん、あなたと先生だけが頼りです。どうか、この事件を解決してください。そして、あの人を……柾樹さんを救ってあげてください!」


「え、ええ……はい! 約束します。ですから、もう心配しないでください」


 僕は、一方ではそんな不謹慎な感情を抱く自分を嫌悪しながらも、必死な眼差しで訴えかける彼女のために、そう、嘘でも力強く頷いて見せるのだった。


「御林様、大丈夫でございますか!?」


「御林君、どうです? 怪我の具合は?」


 と、そんなところへ、知らせを聞いた藤巻執事と報告に行った先生とがバタバタとやってくる。


「……あ、ええ。大したことないので大丈夫です。どうもご心配をおかけしました」


「そうですか。ハァ……それは何よりでした」


 血相を変えていた藤巻執事が、本当によかったと安堵の溜息を洩らす。


 こうして、僕と彼女二人きりの長いようでいて短い時間は、新たな登場人物の出現によって不意に終りを迎えた。


 その胸の苦しくなる一時から開放されたことに、なんだかほっとしたような、それでいて、とても残念なような、そんな複雑な感情を僕は覚えていた――。




 桜子さんや藤巻執事と別れ、自分達のゲストルームへと戻った僕と先生は、先程の実験でわかったことを、夕食までの空いた時間に話し合った。


「先程の実験結果によると、ワイヤートリックで外から鍵をかけた後、壁伝いにとなりの部屋まで逃げることはとりあえず可能みたいですね」


「はい。ずいぶん大変でしたけど……でも、薫君の部屋までは行けても柾樹さんの部屋までは無理ですよ。ほら、ご覧の通り、足場がとてももろいですから」


 先生の言葉に、僕は擦り剥いた肘を見せつけながら、実体験に基づいての注釈を付け加える。


「ってことは先生! 犯人はやっぱり薫君なんですかね? あの密室トリックが使えるとしたら薫君しかいないし。それに、どうやら彼にも二人を殺す動機があるようですからね」


 僕は、現在わかっている情報から導き出される結論を先生に尋ねてみたのであるが、先生はいつのようにうーんと唸りながら、どうにもまだ納得がいかぬといった様子である。


「どうしたんです? 何かまた引っかかることでも?」


「うーん……先程、御林君が壁にへばりついてもがいている様を見て思ったんですが、犯人がそこまで難しい方法を用いますかね? しかも、となりの部屋まで逃げるのにあんなにも時間がかかってしまう方法を。それに、ちょっと足を滑らせればほら、御林君みたいに落っこちてしまうし。殺人に使うトリックとしてはリスクが大きすぎますよ」


 先生の、その人に喧嘩を売っているような台詞にちょっとピキっときながらも、そこはもう僕も大人なのでとりあえずは受け流し、冷静を装った態度で客観的な意見を述べることにする。


「でも、一世一代の殺人計画だからこそ、そんなリスクも犯すんじゃないですか?」


「いや、そんな一世一代の計画であればこそ、失敗するような危険性のある方法は極力避けると思うんですよ。それに、まだ犯人がどうやって青酸カリを飲ませたかもわかっていません。一度目の茂氏はまだいいですが、二度目の咲子夫人の場合は前例があるので被害者も警戒するでしょうし、飲み物に混ぜて飲ませたりするのは大変困難ですからね。これが解決しない限り、まだあれが他殺だったとも断言はできません」


 だが、先生は僕の意見に反論すると、さらにもう一つの残された問題点を指摘した。


 ……そうだった。まだ青酸カリを飲ませた方法についてもわからないのだ。確かに先生の言う通り、二度目の咲子夫人の場合は非常に難しいだろう。


 ……でも、それでもなお、僕は先生に薫君犯人説を主張する。


「だからこそ、息子である薫君ならば油断して飲んだ…とも考えられませんか?」


「うーん……そうも考えられますが、何かこう、不自然さを感じるんですよねえ……ま、早急な結論は間違いのもとです。もう少し調べてからにしましょう」


 最後にそう言うと先生は、いまだ霧の晴れぬ窓の外へと視線を移し、いつものように黙って考え込んでしまう。


 そして、僕らは花小路家へ来て二日目の夕食の時を迎えた――。

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