二 霧の中の洋館(2)

「――着きました」


 そうしてちょうど一時間ほど走ったところで車が止まり、振り返った藤巻さんが僕らにそう告げる。


 そこは話の通りに山奥の、道の真ん中に突如として現れた大きな門の前であった。


 春霞? ……いや、それにしてはやけに濃いように思えるのだが、いつの間にか辺りは深い霧に覆われ、見通しの利かぬ白い世界には、なんとも現実離れした巨大な門だけがでん! と聳え立っている。


 その黒い鉄の柵でできた門の隙間から向こうを覗くと、広い庭を挟んで、これまた大きな洋館が一棟、ぼんやりと霧の海に浮かんでいるのが覗える。


 周囲にはこのお屋敷以外に建物は何一つとして見当たらない……この霧のために見えないだけなのかもしれないが、もしかすると、この山自体が花小路家所有の土地ということも考えられる。


「まことに申し訳ないのですが、私の送迎はここまでです。ここから先はお二人だけでよろしくお願い致します」


 何か内々の事情でもあるのだろうか? 藤巻さんは意味深な断りを入れると先に車を下り、人が一人通れるくらいに開けた門の隙間から僕らをその内側へといざなった。


「はあ……」


 白手袋をした手を門の中へ向ける執事の身振りに、僕らも生返事を返して車から下りる。


 見たところ、門から屋敷まで続く敷地内の道は広く、車で入っていけないこともない。なので、なぜここから先は徒歩なのかよくわからないが、ま、舞踏会に招かれた上流階級の紳士淑女でもなかろうに、玄関の真下まで車で送迎してもらわなくとも構わない。


「それでは先生、道中おつかれさまでした。旦那様がこの世へ残した未練を晴らし、安心して成仏していただくためにも、どうかよろしくお願いいたします」


 深い霧に煙る中、門前で藤巻さんは再度頭を下げ、改めて僕らに事件の解決を依頼する。


「いえいえ、こちらこそ運転ごくろうさまでした。事件の内容を聞いてみない限りはなんともいえませんが、できるだけのことはするつもりです」


「そうですか。それは心強いお言葉が聞けて安心いたしました。では、なにとぞ、どうかよろしくお願い致します」


 曖昧な先生の返事にも、幾分、安堵の表情をその痩せ細った顔に浮かべると、執事は車をUターンさせて、もと来た来た道をさっさと帰って行ってしまう……。


 霧の海に消え入るようにして走り去る車の姿に、一瞬、どこか心細いものが僕の脳裏を過ぎった。


「ここがそのお屋敷ですかあ……花小路家の古いお屋敷と言ってましたが、どなたが住んでらっしゃるんでしょうね?」

 

 一方、そんな僕の感傷的心情を他所に、ぼんやりと灰色に霞む洋館のシルエットを眺めながら先生は暢気に呟いている。


 だが、確かに僕らは「ここが花小路家の屋敷である」という情報しか、今のところ持ち合わせてはいない。


 詳細は現地で聞いてくれと言われただけで、これから解決に挑む事件の内容はおろか、そこに誰が住んでいるのかということさえいまだに知らないのだ。


 そんなんで依頼を受けた先生も先生だとは思うが、昨日のあの状況ではとても断るようなことはできなかったであろう。


「さて、行きますかね」


 近くでよく見ればだいぶ錆びの目立つ鉄の門を潜り、僕らは奥の洋館目指して庭内を歩き出した。


 その広大な庭には枝振りの良い木やら花やらが方々に植えられ、たいそうお金をかけて造られたもののように見受けられたが、その割にはずいぶんと荒れていた。あちこち雑草が伸び放題に伸び、しばらく手入れがされていないような、そんな感じである。


 庭に無頓着なのか? それとも、ここに住んでる人間はごく少数で、とても庭まで手が回らないのか……あるいは、じつは世間の評判と裏腹に花小路家の懐具合は芳しくなく、このお屋敷はずっと放ったらかしになってるとか……。


 そうして勝手な邪推とともに白い霧に覆われた庭内を見物しながら歩いて行くと、いつしか僕らは赤い煉瓦造りの古風な洋館の前へと到達する。


「うわあ……」


 僕はその豪壮な建築物を見上げ、思わず感嘆の声を漏らす……だが、それと同時に、この白霧の中に聳え立つ、見る者に一種異様な威圧感を与える前時代的なその建築物に、何か背筋が冷たくなるような、空寒いものも感じていた。


 コンコンコン!


 一方、相変わらずそんな情趣はまったく感じていないらしい先生は、気がつくと、この雰囲気にはまるでそぐわぬ警戒なリズムで玄関のドアをノックしている。


「もしも~し、どなたかいらっしゃいますか~」


 そして、力の抜けるような声でそう呼びかけると、しばらくして重そうな木のドアがゆっくりと開いた。


「はい。どちら様ですか?」


 そのドアの裏から出てきたのは、30代後半か40くらいの中年紳士だった。燕尾服を着たその男性は、髪をきっちりと七三に分け、細面の顔には丸縁の眼鏡をかけている。


 年はだいぶ違うが、そのビシッとした身なりや顔立ちに、どこか先程まで一緒だった執事の藤巻さんと同一人物であるかのような錯覚に捉われる。


「おや? 藤巻さん?」


 先生も、どうやら僕と同じ印象を抱いたらしく、思わずそんな言葉を漏らすのだったが、相手の紳士はきょとんとした顔で小首を訝しげに傾げている。


 ……ああ、いつものあれ・・か……この人、先生が視界にはいってないな?


 よくあることで特に珍しくもないのだが、影の薄い先生はその存在すら気づいてもらえない状況がままとしてある。きっと今、この人の眼には僕しか見えていないのだろう。


 ……そう、これまでの経験則上、僕は推察したのだったが。


「……いかにも私は当屋敷の執事で藤巻と申しますが、どこかでお会いしましたでしょうか?」


 だが、僕のその推理は外れていたようだ。紳士は先生の口にした質問にちゃんと答えている。彼はその言葉をしっかり聞き取り、先生の存在をわかっていたのである。さすが、この豪華なお屋敷の執事さんだ。


 しかし、彼の返事を聞くと、それとはまた別の新たな疑問が生じる……どうやらこの人も執事を生業とする者で、しかも名前を〝藤巻〟というらしい。


 けれどもこちらの〝藤巻〟さんは僕らのことをまるで知らない様子で、よくよく見れば顔立ちも微妙に違うし、何よりも年齢がまったく違う。普通に考えれば当然のことではあるが、先程まで一緒にいたあの藤巻さんとはもちろん別人なのだ。


 ただ、顔は似てるし、名前からすると親戚か何かなのかもしれない。


「あ、いえ、あなたとよく似た執事の藤巻さんにここまで送ってきていただいたので…」


「はあ? ……あの、いったいどういったご用件で?」


 なんとなく疑問が解け、先生も僕も苦笑いを浮かべながらそう答えたが、やはりこの藤巻執事は何のことだかわからないらしく、怪訝な表情のまま僕らのことをじっと見つめている。


「ああ、これは申し遅れました。私、花小路のご当主の依頼でこちらに参りました私立探偵の秋津影郎と申します」


 どうやら話が通っていないらしいことを察し、先生はかぶっていたソフト帽を取ると、丁寧に頭を下げて名を名乗った。


「助手の御林です」


 続いて、僕もおまけのようにそう名乗ってぺこりとお辞儀をする。


「当家の主人から? ……いえ、そのような話は聞いておりませんが?」


 しかし、それでもまだわからないのか、さらに僕らの方を怪しむような眼差しで睨むと、この若い方の・・・・藤巻執事は妙なことを言い出す。


 どうも話が噛み合わない。本当にこの人は僕らのことを何も聞かされていないのだろうか?


 あ、そういえばさっき〝当家の主人〟とか言っていたな。となると、ここの主人も花小路というのか? ってことは、この屋敷に住んでいるのはあの花小路家の親戚筋か何かなのだろうか?


 まあ〝花小路家の古い屋敷〟なのだから、同姓の同族が住んでいるのも当然といえば当然か……ああ、そうか!そういうことか! どちらも同じ花小路姓なんで、それで先生の話を聞いて自分のとこの主人の依頼だと勘違いしたっていうわけだ。


 僕は頭の中でそう解釈を下すと、ようやく納得したというようにコクンと頷いた。


「いえ、こちらのではなく、ええと、ご本家になられるのかな? 元伯爵家の花小路氏の依頼です」


 やはり先生も同じことを考えたらしく、手をひらひらと振ってそんな説明を加える。


「はあ? 何をおっしゃっているのですか? 当家が花小路の宗家、元伯爵の爵位を賜った旧華族の花小路家です……もしや、あなた方は旦那様の御落胤だなんだという詐欺や騙りの類ですか!? でしたら警察を呼びますよ! 誰か~! 誰か警察に電話を~!」


 だが、先生のその説明も虚しく、執事は声を荒げると屋敷の中に顔を向けて大声で叫び出す。


 思いの外に何だか怪しい雲行きになってきた……。


 どうもよくわからないのだが、やはりこちらの・・・・藤巻執事には話が通っていないらしい……もしかして、先生に仕事を依頼した方の花小路家とこちらの花小路家は仲悪いとか? よくある話だけど。どちらが本家筋かとかで昔っから揉めてるとか……。


 ともかくも、話が通っていないとなると、確かに突然、アポもなく訪れた探偵とその助手なんていうのは見るからに怪しい存在である。


 しかも、世間じゃ名の知れた日本有数の資産家である当主が亡くなった直後のことだし、それでなくとも来訪者に対して警戒心が増していて当然であろう。そこへタイミングよくもやって来た探偵を名乗る怪しい二人組だなんて……このままでは僕ら二人、大富豪の家を狙った強請り集りの輩として警察に突き出されてしまいそうな勢いだ。


「うーん…なにやら話に齟齬がありますねえ……」


「あ! いやその! 僕たち別に怪しい者じゃ…」


 このあまりよろしくはない状況に、相変わらず暢気な先生に成り代わって僕が俄かに慌て出したその時。


「僕が頼んだんですよ」


 執事の体越しに、屋敷の中から突然、そんな声が聞こえてきた。


「あ、これは柾樹まさき様!」


 藤巻執事は後を振り返ると、思わぬ様子で驚きの声を上げる。


 燕尾服の隙間からそちらを覗うと、そこにいたのは一人の若い男性だった。白シャツに黒いスラックスを履いた、20代そこそこの顔立ちの良い好青年である。


「この方達は僕が依頼して来ていただいた名探偵の秋津影郎先生とその助手の御林さんです。ほら、例の事件のことで……」


「ああ……左様でしたか。それはどうも失礼をいたしました」


 その若い人物の言に、執事はわずかに逡巡した後、ようやくにして納得してくれたようである。


「ホッ……」


 警察に突き出されずにすんで、僕は文字通りホッと胸を撫で下ろす。無論、となりの先生の方はそもそも動じてすらないの、はなから安心も何もないのだが……。


いや、そんな先生の反応よりも、今、〝事件〟という単語を耳にした瞬間、執事がどこか奇妙な顔色を浮かべたのがどうにも気になって仕方ない。


「どうも初めまして。当家の主人の息子で、桂木…あ、いや、花小路柾樹と申します」


 続けてその男性は、若者らしい溌剌とした声で僕らにそう挨拶をした……なんて、高校生の僕が言うのもなんなんだが、それほどに若々しい爽やかな印象を与える人物なのである。


 でも、姓を名乗る時、言い間違えて後から〝花小路〟と訂正していたのはなんだったんだろ? それに、さっき彼が依頼主のようなことを言ったような気もするが、依頼主は昨日会ったあの老人ではないのか?


 先生もそこら辺のことが気になったらしく、わずかではあるが目を細めた。


「あのう、話がどうにも見えてこないんですけどぉ……僕達はもっと年配の花小路さんに依頼されて、ここまで連れてこられたんですが、本当の依頼主はあなたなんですか? それから、ある事件を解決してほしいということだけで、詳しい話もまだまったく……そのある事件というのはどういう……」


「まあ、そうお急ぎにならずに。こんな所で立ち話もなんですから、まずはお部屋にご案内いたします。詳しいことはそれからにいたしましょう」


 どこか齟齬のあるこちらの認識と向こうの側の言に思わず僕が質問をぶつけると、花小路柾樹と名乗るその青年は手を前に差し伸べてその口を遮る。


「藤巻さん、先生達をお部屋に御案内してください。それから、例の部屋・・・・までお連れしてくださいますか? 僕は鍵をとってきますから」


「かしこまりました。では、秋津様、御林様、どうぞこちらへ」

 

「はあ……」


 なんだかよく訳のわからぬまま、豪壮なその邸宅内に足を踏み入れた僕と先生は、先を歩く執事に導かれるままに、邸内にいくつかあると思われるゲストルームの一つへと辿り着いた。

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