二 霧の中の洋館(3)

 そのゲストルームは建物一階の北側にあるが、玄関からそこへ行くまでに見た邸内の様子もこれまた豪華絢爛たるもので、映画やドラマの舞踏会シーンで見るような大ホールがあったり、天井からはキラキラと光るシャンデリアが下がっていたり、廊下のあちこちには高そうな壺やら青銅製の偉そうな胸像やらが置かれていたりと、まさにお金持ちの豪邸の典型といった感じの内装である。


 それに、なんだかレトロというか近代っぽいというか、まるで戦前にタイムスリップしたかのような、現代風ではない古めかしい印象をこのお屋敷からは受ける。そこら辺が、やはり元華族さまの邸宅といったところなのかもしれない……。


「では、ご用意ができましたら、今度はこちらへおこしください」


 そう感じさせる一因であろう、同様に一般庶民の感覚を逸脱した瀟洒なゲストルームで僕らが旅装を解くと、すぐに執事は次の部屋へと誘う。


「あ、はい」


 その部屋の優雅な雰囲気を味わう間もなく、異邦人の顔をした僕らも後に着いて部屋を出る……すると執事は、さっき通った屋敷の中欧に位置する大ホールへと向い、そのホール正面に設けられた赤いカーペット敷きの大きな階段から二階の方へと上って行く。


 ゲストルームを出てすぐの廊下の両端にも階段が見えたが、それよりもこちらを使った方が近いのだろうか?


いずれにしろ、どうやら目的の部屋は二階にあるらしい……。


 先程、柾樹とかいうあの青年は〝例の部屋〟とかなんとか意味深なことを言っていた。〝例の〟とは、いったいどういう意味なのだろうか?


「あのう、藤巻さん。ご家族か御親類にも、花小路家の執事をしている方がいらっしゃいます?」


 僕がそんなことに思いを巡らしていると、不意に先生が執事にそう質問を投げかけた。


 僕もそう感じたが、どうやら、あのもっと高齢の・・・・・・藤巻さんとこの藤巻さんが、どこか似ていることをずっと気にしていたようだ。


「は? ……いいえ。そのような者はおりませんが。というよりも、私の親戚は前の大戦中に死に絶えておりますし、家族も父と母はすでになく、後はこの山の麓に暮らす妻と五つになる息子がいるばかりでございます。それがいったい何か?」


「ああ、いえいえ。すみません。どうやらこちらの勘違いだったようです。他人の空似というやつですかねえ……」


 執事に怪訝な顔で見つめられ、先生は気恥ずかしそうに首を横に振って苦笑いを浮かべた。


 そっか。あの藤巻さんとは赤の他人なんだ………ん? でも、なんかおかしいな。別に親族でなくとも、同じ花小路一族の家に同姓の藤巻という名の執事がいれば知っててもよさそうなものだと思うんだが……今の反応からして、彼はまったく知らないみたいだった。


 やはり、どうにもさっきから、僕らと彼らとの間には何かの齟齬があるような気がする……。


 コンコン…!


「柾樹様、藤巻でございます。秋津先生方をお連れいたしました」


 突然、耳に軽快なノックの音が響く。僕がそんなぼんやりとした疑念を抱いているうちに、その〝例の部屋〟とやらに到着していたみたいである。


「どうぞ。入ってください」


 そこは二階西側の廊下に面して横一列に四つ連なったドアの内の、奥から二番目のドアの前だった。その部屋の中からは先程の柾樹という若者の声が聞こえてくる。


「失礼いたします」


 その声を聞いて、藤巻執事がドアを開ける。覗き見ると僕らが通されたゲストルームと同じくらいの広さの、やはり瀟洒な作りの部屋だ。


 しかし、ゲストルームとは違い、あまり調度類がなく殺風景な印象を受ける。あるのは古びたベッドと鏡台。それから人が入れるほどの大きなクローゼットが一つぐらいである。おまけにこの部屋の中の空気は、少し埃っぽいようにも感じられる。


「さ、どうぞ入ってください」


 柾樹青年の言葉に、先生と僕も室内へと足を踏み入れる。


「では、私はこれで失礼いたします」


 それを見届けると執事は断りを入れ、静かにドアを閉めて部屋を後にする。


 部屋に唯一ある外に面した窓も閉められており、閉め切られた埃っぽい部屋の中には先生と僕、そして柾樹という青年の三人だけが残された。


「すみません。本来なら少しお休みいただいてからの方がよろしいのでしょうが、早く依頼の内容をお知りになりたいのではないかと思いまして……」


 と、唐突に部屋の中央にこちらを向いて立つ柾樹青年が話し始める。


 それは確かに。今もってなぜここに連れて来られたかもわからないので、早く話が聞きたいところではある。


「いろいろ事情があって詳細は省きますが、僕が秋津先生をここへお呼びしました……この部屋で起きた事件の真相を明らかにしてもらうために」


「この部屋で起きた事件?」


 いろいろ事情があって…というのも気になるが、それよりもその事件という方に興味を惹かれ、僕はその言葉をオウム返しに呟く。


「はい。この部屋で一週間ほど前に僕の叔父が毒を飲んで死んだんです。しかも、部屋は密室・・の状態で」


 密室……そのミステリアスで蠱惑的な響きに、先生は眉根を寄せてわずかに目を細める。

 

「密室……と言いますと、どのような状況だったんですか? もっと詳しくお教え願えませんか?」


 密室と聞いて俄然興味が湧いたらしく、いつも通りの緊張感のない口調ではあるが、先生は積極的に質問を口にし始めた。


 名探偵のさがとでも言おうか、先生はこういった謎めいた事件に遭遇するとようやくスイッチが入るのだ。


 とは言え、いかんせん影の薄い・・・・先生、訊いてるのに無視されることも多いのでるが……。


「はい。順を追って説明しますと、そもそもの発端は八日前のことになります……」


 ところが、柾樹青年は先生の方へ視線を向け、ちゃんとその質問に言葉を返してくれる。


 驚いた。本来は珍しいことなのだが、この人も先生の希薄な存在をちゃんと認識してくれているようだ。花小路老人といい、二人の藤巻執事といい、どうやら花小路家の人々とはずいぶんと相性がいいらしい。


「僕の母方の叔父である本木茂が突然失踪したのです。この屋敷からどこへともなく」


 おっと。そんなぜんぜん関係ないことを考えている内にも、彼の話はいよいよ本題に入っている。


「失踪ですか……でも、お家からいなくなったというだけなら、失踪ではなく、ただどこかへ遊びに行かれただけなのでは? 大の大人のことでもありますし」


 続けざま、先生が疑問に思ったことを素直に問うた。


「ええ。僕らも最初はそう思いました。でも、日が暮れて、次の日の朝になっても帰ってくるどころか、連絡の一つもなかったんです。僕はここに来てまだ間もないですが、叔父は今まで、そのように連絡なしに一人でどこかへ行くようなことは一度もなかったそうなんです」


 そう答える彼に、先生が一瞬、またわずかに目を細める。


 おそらく僕と同じだと思うが、今、彼が言った〝僕はここへ来てまだ間もない〟という台詞が気になったのだろう。当主の息子なのにこの家に来て間もないというのは、いったいどういうことなのだろうか?


 だが、それを確かめる時間を与えてはくれず、柾樹青年は話を先へ進める。


「それで、叔父がいなくなった翌日――つまり一週間前の朝から、僕らは叔父を探し始めました。もしかして付近の山の中で倒れてやしないかと思い、警察に捜索願いを出す前に自分達でも探してみようということになりまして」


「でも、見つからなかった?」


「はい。そこで誰かが、ひょっとすると家の中なんじゃないか? なんてことを言い出したんです。ご覧のようにこの屋敷は広いですから、普段使われてない部屋で倒れていたら、三日ぐらい人の目に触れないことだってありえなくはない……そんなわけで屋敷内を捜索し始めた矢先、あることに気づいたんです」


「あること?」


 また僕は、気になるその言葉をオウム返しに思わず呟く。


「ええ。この屋敷に住む者が使用している個人部屋を除いて、ゲストルームや現在使われていない部屋の鍵はすべて一階の玄関脇にある執事の仕事部屋にまとめてかけてあるんですが、今、僕らがいるこの部屋の鍵だけがその時なくなっていたんです。そうなると、もしかしてこの部屋じゃないかということになり…」


「ということは、この部屋は普段使われていない部屋だったのですか?」


「あ、はい。ここは以前、使用人部屋として使われていたそうなんですが、今はまったく使われていません」


 話を遮って先生が確認するように口を挟むと、柾樹青年は先生の勘の良さに少し驚いている様子でそう答えた。


 なるほど。空き部屋か。それでちょっと埃っぽいわけだ。


「で、僕らがこの部屋まで来てみると、中から鍵がかかっていました。ノックしたり声をかけてみても返事はありません。もちろん、ただ鍵がなくなっただけで叔父は中になんかいないと考えるのが普通なんでしょうが、その時、どうにも嫌な予感がした僕らは鍵のかかったドアを壊してみることにしたんです。そして、体当たりしてドアを開けてみると、そこには……そこには……」


 その時のことを思い出したのか? 柾樹青年は急に蒼ざめた顔になり、息を整えるかのように少し溜めてから、無残なその結末を口にした。


「床の上に泡を吹いて倒れている叔父の姿がありました。近くには小さな茶色いガラス瓶が転がっていて……後の警察の調べでわかったことなんですが、叔父の死因は青酸カリによる中毒死で、そのガラス瓶に付着していたものと一致したそうです」


「ふむ……鍵のかかった部屋の中で毒死ですか………密室というと、そちらの窓も?」


 顔を蒼白にする柾樹とは対照的に、凄惨な現場の描写にも特に動じていない先生が、いつもののんびりとした調子で窓の方を見つめながら尋ねる。


「……え? あ、はい。叔父を発見した時、ドアばかりでなく、あの窓も内側から鍵がかけられ、完全に閉め切られた状態でした。いいえ、そればかりでなく、さらに叔父の右手の中には一つしかないこの部屋の鍵が握られていたんですよ」


 柾樹青年は、叔父の遺体が横たわっていたであろう床の上に視線を落とし、その時の光景を脳裏に浮かべているような顔でそう答えた。


「……なるほど。それで密室ですかぁ……」


 この部屋への出入り口は、今入ってきたドアが一つと、あとは外に面した観音開きに開く窓が一つしかない。その二つが内側から施錠され、しかも、この部屋の鍵を当の本人が握っていたとなると、確かに完全な密室である。


 が、しかし……。

 

「あの、誰かが合鍵を作っていたなんてことはありませんか?」


 僕は思いついたその可能性について訊いてみた。


「いえ。それはありません。ここの鍵は一つしかありませんでしたし、執事の部屋にある鍵は藤巻さんが管理していて、事あるごとにちゃんと全部あるか確認するようにしているんです。仮に誰かがここの鍵を持ち出して合鍵を作ろうとしても、近所に合鍵を作ってくれるようなお店はありません。藤巻さんがチェックする間に鍵を持ち出し、合鍵を作って帰ってくるなんてことは不可能なんです」


 だが、その可能性もあっさり否定されてしまう。


 今時、合鍵なんてそこら辺の店で短時間に作れそうなものではあるが、今日来た時のことを思い起こしてみると、ここはけっこうな山の中だ。そうした鍵屋さんも…いや、店と呼べるもの自体、麓の町まで行かなければ存在しない。確かに合鍵を作るだけでもそれなりに時間は必要であろう。


「そうですかぁ……では、やはり完全な密室だったということですね。だとすると、その叔父さんの死は自殺ということで問題ないのでは?」


 完全な密室であったことが濃厚になり、先生はその閉め切られた部屋の中をぐるりと見回しながら問いかける。


「警察もそのような判断を下しました。司法解剖の結果も他に外傷は見つからなかったようです……でも、叔父が自殺するようなことは考えられないんです。特に悩みを持っているようにも思えませんでしたし、僕が見た限り、叔父はそんな世を儚んで死ぬような類の人じゃないんです」


「遺書は?」

「ありませんでした。この部屋にもありませんでしたし、後で叔父の部屋を警察が調べもしましたが、遺書らしいものは何一つ見つかりませんでした」


「なるほどぉ……それで君はこれが自殺ではなく、誰かに殺されたんじゃないかと思っているわけですね?」


「いえ、そこまで確信は持っていませんが……でも、やっぱりこの叔父の死にはどうにも腑に落ちないところがあるんです。他の家族も自殺などとは信じておらず、不安と疑心暗鬼に苛まれています……そこで、先生にお頼りしたんです。秋津先生! どうか、この叔父の死が本当に自殺だったのか、それとも、もっと恐ろしい事件によるものだったのか? それをはっきりさせてほしいんです!」


 柾樹はその顔に暗い影を落とすと、少し語気を強めて先生に懇願する。


「それが今回の依頼の内容というわけですね………わかりました。できうる限り調べてみましょう」

 

 そんな必死で頼み込む彼の姿に、先生は目を伏せて少し考えると、なんとも見ているだけで和む穏やかな微笑みを湛えてそう答えた。


「ありがとうございます! 秋津先生にそう言っていただけると、それだけでもう、なんだかこの気味の悪い不安が少し薄らぐような気がします」


 色よいその返事を聞くと、柾樹青年は若干顔の色を明るくし、まだ調査すら始まっていないというのに先生へ感謝の言葉を述べた。

 

 トントン…。


 と、そこへ再びドアをノックする乾いた音が聞こえてくる。


 皆、音につられてドアの方を振り返ると、開いたドアの向こう側には、淡いピンクのワンピースを着た若い女性が立っていた。


「失礼いたします。柾樹さん、こちらが名探偵の秋津先生でいらっしゃいますのね」


 その麗しい黒髪をおかっぱ頭にカットしたかわいらしい女性は、キラキラとつぶらな鳶色の瞳を輝かせながら、弾んだ声でそう尋ねる。


「ああ、桜子さ…じゃなかった、お姉さん」


 対して柾樹青年は、なんだかまた言い間違えをして訂正しながらも、どこか嬉しそうに暗かった顔を綻ばせた。


「秋津先生、ご紹介いたします。こちら、僕の姉です」


「どうも初めまして。柾樹の姉の花小路桜子と申します。先生、この度はご無理なお願いをいたしまして、まことに申し訳ございません」


 続けて僕らに紹介すると、その姉だという桜子なる女性は、自らも名を告げてから深々とこちらにお辞儀をする……のだが、案の定、いつもの如く相手を間違えている。

 

「あのう……僕は先生ではなく、秋津影郎はこちらの方でして……」


 僕に対して挨拶をするその桜子さんに、僕はおそるおそるいつものように間違いを訂正した。


「え? ……まあ! なんて失礼なことを! 申し訳ありません! どうしてかしら? わたくし、探偵小説も好きでよく読むのですけれど、よく見れば明らかにそちらの方の方が探偵然りとしたお姿だというのに……ほんとなぜかしら? なぜだかあなたの方に目がいってしまい……」


 僕が指し示した先生の方を見て、ようやくその間違いに気づいた桜子さんは口元を手で覆いながら、あわあわと慌ててその無礼を詫びている。


 歳は二十歳前後だろうか? 〝探偵小説〟という言い方も古めかしいし、その年齢のわりにはとても落ち着いた、そして、同じ年頃の女子には見られないような非常に上品な言葉使いをする人であるが、こうして不慮のアクシデントに見舞われた時に見せる素の仕草はやはり年相応という感じでなんともかわいらしい。


 もちろん、容姿も良家のお嬢様というのが一目でわかるような、清楚で凛とした美しさを持っている。着ている薄ピンク色のワンピースがほんとによく似合う、なんとも可憐な乙女……いや、表現がものすごく古臭いが、まさにそんな言葉がぴったりな美しい女の人なのである。


「ああ、いえいえ。日常茶飯事なのでお気になさらず。どうも、秋津影郎です」


「あの……それではこちらの方は?」


 こちらもいつものことなので、はにかみながら頭を上げるよう先生が言うと、今度は僕の正体に疑問を持ったらしく、そのつぶらな瞳で僕の顔をまじまじと見つめ、桜子さんはそう問いかけてくる。


「ハッ! ……あ、あの、先生の助手で、お、御林といいます!」


 はからずも彼女に見惚れてしまっていた僕は、目があった瞬間、カァーっと全身の血が沸騰するように熱くなると、慌てて視線を逸らしてドギマギしながらそう答えた。


「まあ、先生の助手さんですのね! こんな立派な助手さんまでいらっしゃるなんて、ますます頼もしいですわ。先生ともども、よろしくお願いいたしますわね」


「あ、はあ……」


 対する桜子さんの方は特に何も感じてはいないらしく、大きな目をさらに大きく見開き、うれしそうに僕を見つめ続けながら期待をかけてくれるのだが、僕は恥ずかしさに俯き加減のまま、そう生返事をすることしかできなかった。


「ああ、柾樹さん。そろそろお昼ですわ。ちょうど皆さん揃うことですし、ここは先生達にもご一緒していただいて、ついでに他の家族をご紹介なされたらいかがかしら?」


 だが、そうした僕の心の内など知る由もなく、桜子さんはあっさりと僕から視線を移すと、思い出したかのように柾樹青年へそんな提案をする。


「そうですね。まだ、お父さん達にも紹介していませんし、それがいいです。では先生、御林さん、先にお昼にいたしましょう。調査はまたその後ということで」


 彼もその提案には賛成のようで、二言なく頷くと僕らを部屋の外へと誘った。


 花小路家の昼食かぁ……こんな大豪邸の食事だから、きっとすごい豪勢なものなんだろうなあ……でも、家族がみんな揃うようなこと言っていたような……上流階級の家族が一同に会する食卓……スゴいプレッシャーだ。なんか、緊張して味わかんないかも……。


 完全に勝手なイメージなのだが、僕は大きな長テーブルを煌びやかに着飾った紳士淑女達が取り囲む食事シーンを妄想して、密かに独り少し尻込む。


「ああ、そういえば、おなか空きましたねえ。では、ご迷惑でなければ、ご一緒させていただくことにいたしましょう」


 一方、いつもの如く暢気な様子で快諾する先生のおかげで、僕らはなんとも恐ろしげな昼食会へ向かうこととなったのだった……。

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