二 霧の中の洋館(1)

「それじゃ母さん。行ってくるよ」


 迎えに来た黒塗りの高級車後方の窓ガラス越しに、そう言って僕は母に手を挙げた。


「行ってらっしゃ~い。秋津先生の言うことをよ~く聞くのよ~」


 すると玄関先に立つ母・御林都々美おはやしつつみは、まるで大人の引率で遊びに行く子供にでも向けるようにして、僕を完全にお子ちゃま扱いしているとしか思えない言葉を返してくる。


「いや、むしろ僕の方が先生の引率みたいなもんなんですけどね……」


 のほほんと能天気な微笑みを見せているそんな母に対し、僕はとなりに座る推理力以外はまるで役に立たない先生の方をチラリと見やりながら、眉根を「ハ」の字に寄せて渋い苦笑いを浮かべた。


 先生が仕事の依頼を受けたその翌日の朝、こんな時・・・・だというのに藤巻執事の運転する車は約束通りに僕らを迎えに来た。


 執事といったら、使用人達を統括し、家のこと全般を取り仕切るのが仕事だ。花小路翁が亡くなり、葬儀の手配やらなんやかやでそれどころではないと思うんだけど……それ以上にこの依頼の件は重要だということだろうか?


 まあ、花小路翁が病を押して僕らと会い、生前最後に託した願いではあるもんな……。


「それではみなさん、そろそろ参りましょう」


 そんなことを考えつつ、昨日会った時の翁の顔をぼんやり脳裏に思い浮かべていると、運転席の藤巻さんがそう断りを入れて車を発進させた。


 振り返れば、住み慣れた昭和レトロな看板建築の我が家と、その前でなおも暢気な笑顔で手を振っている母・都々美の姿が徐々に遠ざかってゆく。


 この時の僕は、これから向かう先でまさかあんな恐ろしい事件が起きようとは思ってもみませんでした……。


 ……なんちゃって。いや、なんだかそんなシュチュエーションだったので、ちょっと心の中で密かに言ってみただけだ。サスペンスドラマとかで見て、一度自分でも言ってみたかったのである。


 さて、冗談はともかくとして、目的地である花小路家の古い屋敷というのは東京郊外の、とある山奥の中にあるのだという。山奥とはいっても車で行けば一時間ちょいほどで着ける場所らしい。


「……あのう、花小路氏がお亡くなりになられたというのに、このような所にいて大丈夫なんですか?」


 車が走り出して少しすると、枯れた柳の木の如くひっそりととなりに座る先生が、僕も疑問に思っていたそのことをおそるおそる藤巻さんに尋ねた。


 影薄キャラだし、一見、物静かで控えめな性格のようにも思われるが、そこはやはり探偵をやっているだけあって、気になることはどうしても質問せずにはいられないタイプなのだ。


「ええ。確かにこのような時にお屋敷を空けるのは正直心苦しくはありますが、そちらは他の者に任せてありますので、私め一人がいなくともなんとかなります」


 後部座席から問いかける先生に、ハンドルを握る執事はどこか淋しげな瞳で前を見つめたまま、淡々とした調子の声でそう答える。


 昨日に引き続き、藤巻執事も先生のことをちゃんと認識・・してくれているらしい……存在にすら気づかれないことも多い先生だが、経験則上、一度認識されればなんとか視界に入ってくれるようだ。


「それよりも、秋津先生方には何としてでもあの事件を解決していただくようにというのが、旦那様が亡くなる間際までおっしゃられていたご遺言にございます。よって、昨日のお約束通り、先生方をあの屋敷までお送りするのが、私、藤巻の責務だと心得ております」


 遺言……そういえば、昨日、花小路氏本人も〝遺言と思って〟とかいうことを言っていたが、まさか、本当にあれが遺言となってしまうとは……。


 そんな遺言だったからこそ、藤巻執事は大事な葬儀も放っておいて、独り僕らの送迎に来てくれたというのだろうか? 


 ……それとも、もっと他に、藤巻さんにとってもその事件というものには何か特別な思い入れがあったりとか?


 そんなことを訊いてみようかとも思ったが、それっきり執事は黙ってしまった。


 そういえば、そもそも僕らが今、花小路家の屋敷へ向かっているその目的――先生が解決を依頼された〝不可解な事件〟なるものの内容もまだ何も話されてはいないが、なんだか無言の威圧感で、どうにも訊けるような雰囲気ではない。


 後は目的地に着くまでの間、車内には「あの建物はおもしろいですねえ」とか、「あそこの山は緑がきれいですねえ」とかいう、先生のまるで緊張感のない発言と、それに一応、「ええ」とか「はあ」とか答える僕の気のない返事だけが虚しく聞こえていた――。

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