一 突然の依頼(2)
「――旦那様、秋津先生方が参られました」
「……ああ、これは秋津先生……急にお呼びたてしたにもかかわらず、ようこそお出でくださいました……本来ならば、こちらからお伺いせねばならぬところ……このような老いぼれの身ゆえご容赦願いたい……」
主人よりはよほど若く見えるが、やはり白髪をした丸眼鏡の執事が耳元で声をかけると、老人はそれまで瞑っていた眼をゆっくりと開き、時折、ぜいぜいと荒い息遣いを折り混ぜながらそう告げた。
すっかり白くなった髭を皺だらけの顔の上に生やし、鼻には酸素吸入のためのゴム管を着けて病床に横たわる痩せ細った老人――その人こそが日本有数の大富豪であり、今回の依頼主でもある花小路翁だ。
あれから電話をかけ直し、アポを取ってエドガー記念病院へ先生とともに向かうと、受付には執事の
「それにしても、こんなにお若い方だったとは……御高名な名探偵と聞いておりましたから、もっと年上の方だとばかり……」
そのラグジュアリーな雰囲気漂う部屋の中央に置かれたベッドの上から、半身を起こした花小路翁は僕の方をじっと見つめてそう続ける。
「あ、いえ、僕は秋津先生ではなく、その付き添いといいますか、簡単に言ってしまうと助手みたいなことをしている御林という者でして……」
ずっとこちらへ視線を向けてるので薄々感じてはいたが、やっぱり僕を先生と勘違いしている……案の定、花小路翁も
「ああ、では、そちらにいる方が秋津先生なのですね。それは失礼いたしました。いや、誰なのかと疑問には思いましたが、偶然居合わせた病院関係者か何かだと……」
しかし、いつになくその病床の老人は、先生の存在自体には気づいていたようである。通常、いないものと見なされることも多いので、先生にしては上出来である。
もしかしたら、自身も病人という生気の薄らいだ状態にあるために、いるんだかいないんだかわからない先生とは相通じるものがあったのかもしれない。
「それで、さっそくですが、天下に名高き花小路グループの会長様ともあろうお方が、私などのような者にいったいどのようなご用がおありと?」
自分の存在に気づいてもらえた先生は、なんだかうれしそうな声色で自ら花小路翁に尋ねる。
影が薄いだけでなく、先生は表情の変化やリアクションも薄いので他人にはわかりづらいかもしれないが、僕のように普段一緒にいる者の目から見ると今日はかなりご機嫌な様子である。
「なに、先祖の名声と財力にすがって生きてきただけの無能な老いぼれ爺ですよ。秋津先生の方こそ、その道では知らぬ者もおらぬ名探偵……そこで、ぜひとも先生には
照れ隠しなのか、挨拶もそこそこに本題を切り出す先生の言葉に、花小路翁は謙遜というよりも過剰に自分を卑下しながら、息の漏れる雑音(ノイズ)混じりの声でそんな気になることを口にした。
「不可解な事件?」
やはり他人にはわからないかもしれないが、先生の細めた目に幾分、興味の色が浮かぶ。
「ええ。詳しいことは現地で聞いていただければと思うのですが……そのある場所というのは東京郊外にある古い花小路家の屋敷です。そこで以前、ある不可解な事件が起きました……いや、まだ私の中では、その事件は続いております。ずっとそのことを考えてきましたが、どうしてもその真相を解明することはできませんでした。いえ、そうではないですな……おそらく私は真相を知っていた。だが、それを証明する確たる証を見つけることができなかったのです」
思わず訊き返す先生に対し、花小路翁は堰を切ったように心の内を吐露し始める。
「先生、あの
病の身にはあまりよくないようにも思えるが、言葉と共に溢れ出した感情が老人をさらに興奮させる。
「先生! どうか、あの事件の謎を解き明かしてください! そして、あの
花小路翁は感極まり、声を張り上げて先生に頼み込む。相変わらず荒い息遣いではあるが、それはとても病床に伏す老人とは思えないくらい、強い響きを持った声である。
「先生! これを私の遺言だと思って、どうか! どうか…」
「わ、わかりました。なにやら深い理由があるご様子。役に立つかどうかはわかりませんが、私などでよろしければ、とりあえずお引き受けすることにいたしましょう」
鬼気迫る老人の勢いに毛負され、先生はちょっとおよび腰にながら、その具体的にどういう内容かもまだわからない依頼をあっさりと承諾した。
先生は名探偵のくせに、こういった交渉が苦手なのだ。僕らの所へ来る前は、いったいどうやって探偵業を営んでいたものやら……。
だが、そればかりでなく、こんなにもあっさりと引き受けたのには、少なからずその事件とやらに興味を持ったという理由もそこにはあるのだろう。
それについは僕にしても同じだ。花小路老人のこの普通じゃない態度……そういわれてみれば、お抱えの弁護士なり調査員なりを使うでもなく、天下の花小路グループ会長がこんなお忍び的に先生を呼んで依頼するのも変な感じだし、どうやらこの裏にはかなり深い
「おお、そうですか! それは良かった……ゼェ、ゼェ…」
先生の快諾の言葉を聞いて安心したのか、興奮という名のドーピングの切れた老人は、これまで以上に荒い息遣いを見せている。
「ゼェ、ゼェ…それでは、さっそくで申し訳ないですが、明日からよろしくお願いいたします。明朝、この藤巻が車でお迎えに参りますので」
苦しげにそう言って花小路翁が黄色く濁った目をそちらへ向けると、ベッドの脇に立つ初老の執事は深々と僕らに頭を下げる。
「それではそのようなことで……ゼェ、ゼェ…秋津先生、それに御林さんと申しましたかな? この老いぼれの人生最後の頼み、遺言と思ってなにとぞ、なにとぞ、よろしくお願いいたしま…」
だが、そこまで言いかけた時だった。
「ゴホォ! ゴホッゴホッゴホッゴホッ……ウゴッ…ゴファ…!」
突然、花小路翁は激しく咳き込みだしたのである。それも尋常な咳き込み方ではない。その咳は一向に止まず、息もできない様子で苦しんでいる。
それを見た先生と僕は思わず老人の方へ駆け寄ろうとする。だが、そのあまりの剣幕に躊躇して、半歩足を踏み出したところで止まってしまう。
「旦那様っ!」
一方、執事は慌てて老人に飛びつくと、その背骨の浮き出た背中を摩りながらベッド脇にあるナースコールのボタンを押す。
「ゴホォ! ゴホッゴホッゴホッゴホッ…」
なおも老人の壮絶な咳は止まらない。その間にもコールを聞いたナースステーションの看護婦や医師達が騒然と病室に駆け込んでくる。
僕達はその喧騒の中、ただただ苦しむ老人と彼に処置を施す者達の姿を黙って見つめていることしかできず、その日は依頼の話も中途半端なまま、やむなくお暇することとなった。
……そして。
これは家に帰った後、夜になってから電話で知らされることとなったのだが……奇しくもその夕刻、花小路翁は悪化した容態が快方に向かうこともなく、そのまま帰らぬ人となったそうである。享年80歳だったという。
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