八 重遺出(3)
それから、身に合わない大きな麦わら帽子をすっぽりかぶり、洋館の裏口から急いで出てきたひなたを仲間に加えると、俺達は再び生垣の隙間を一列ですり抜け、洋館の裏にある小さな山へと向かった。
突然、すぐ目の前に姿を現したウワサのシラコ本人に、最初はみんなも動揺を隠し切れずにいたのだが、そこはさすがこども同志だけあって、すぐに打ち解けることができた。
「――わあ! きれい~!」
遠足気分で洋館裏から伸びる山道を登り、その頂上にできた野生の花畑に到着すると、初めて生で、昼間の大空の下に広がる自然の景色を目の当たりにしたひなたはいたく感動していた。
いや、花畑だけではない。初めて外で見るキラキラ光った湖面の風景も、そこに到るまでに通った木漏れ日に光る樹々のトンネルも、見るものすべてが新鮮な驚きと感動を彼女に与えていたに違いない。
「そんじゃ、シラコも入れて鬼ごっこしようぜ!」
走り回るには充分に広いその草原で、俺は音頭をとってみんなにそう提案した。
〝ひなた〟と呼ぶのはなんだか気恥ずかしかったし、その方が言い慣れているのでいまだ〝シラコ〟呼ばわりだ。
「じゃ、言い出しっぺのシュウが鬼ね!」
「さ、シラコちゃん、逃げるよお!」
「あ、シラコちゃん、裏手の崖は危ないから気をつけてね~!」
すると、あずさが勝手に俺を鬼に決め、ほたるや美鈴もひなたをシラコ呼ばわりして、一斉に四方に散る自分達とともに逃げるよう促す。
「あ、ちょい待てよ! おまえらズルいぞ!」
俺も慌てて駆けだす友人達をぐるりと見回すと、一足遅れたために一番近くにいたひなた目がけて走り出した。
「ヘヘヘ…俺様から逃げられると思うなよ!」
そう嘯いて野花の咲き乱れる夏草の海を掻き分け、真っ白なワンピースが眩しいひなたの背中を追いかける俺だったが、予想していた以上にひなたの足は速い。
「…ハァ……ハァ……ま、待てっ! ……ハァ……ハァ……た、タッチっ!」
俺は完全に息が上がるほど全力疾走して、ようやくに彼女の小さな背中へ手を触れた。
「…きゃっ! …フゥ……あ~あ、掴まっちゃったあ~……」
タッチされたひなたは、俺に比べてあまり堪えていない様子で、残念そうにボヤいている。
「おまえ……ハァ……ハァ……運動できなさそうな割に意外と足速いんだな……フゥ~……」
「昼間はダメだけど、お父さんとお母さんが健康のためにって、夜お外で走ったり、ジムで運動したり、屋内プールで水泳したりさせてくれるからね。体力ならそこら辺の男子にも負けない自信あるよ」
肩で息をしながら感心する俺に、ひなたは自慢げにそう答えて、細く真っ白い腕でガッツポーズをしてみせる。
「でも、こんな風に昼間お外で思いっきり走るの、あたし初めて! お日さまのある内に走るのって、こんなに気持ちよかったんだね! あたしも日光さへ平気だったらなあ……名前は
そして、とても晴れ晴れとした顔で心底うれしそうにそう告げると、一転、不意に淋しそうな表情を覗かせて自虐的な笑みを浮かべた。
「フン。日光には弱いけど、夜や屋内なら元気になるって、おまえ、幽霊じゃなく吸血鬼だったんだな……そんじゃ、鬼ごっこじゃなくて吸血
そんなひなたに男子としてちょっと悔しい思いの俺は、尊敬と皮肉の両方の意味を込めていじわるを言うと、皆に鬼の交替を伝えて自身も再び走り出す。
「…あ! もお~…誰が吸血鬼だよぉ~! よーし……みんな待て~っ! キーっ!」
対して口では文句を言いつつもほんとはノリノリなひなたは、両手の爪を立てると大口を開いて尖った犬歯を覗かせ、吸血鬼を真似るような格好で俺達を追いかけ始めた。
こうして、そのまま〝シラコ〟があだ名となった新たな友人ひなたとともに、俺達はしばしの間、山上の花畑での鬼ごっこに興じた。
無論、外見に惑わされ、彼女の体力を舐め切っていた俺達はすぐに捕まり、また、逆に鬼はなかなか彼女を捕まえられなかったことはいうまでもない……。
あまりにも楽しかったので、俺達はひなたの両親が帰ってくる前に別荘へ戻ることも忘れ、ついつい時間も気にせずに花畑での遊びに夢中になってしまった。
そうこうする内に、空を覆っていた灰色の雲が風で流され、所々できた雲間からはぼんやりと陽光の柱が山上の花畑へ射し込んでくる。
「わぁ……すっごくきれい……」
いわゆる〝天使の梯子〟と呼ばれる現象と相まったその絶景に、ひなたも俺達も思わずうっとりと感嘆の溜息を漏らしてしまう。
…………だが、環境学の道に進み、気象学も勉強している今となっては既知の事実であるが、その当時の無知だった俺はそんなことまるで知らなかった。
日光アレルギーのもとである紫外線は、たとえ曇りであろうと弱くなることはあってもけしてなくなりはしないということを……そして、こんな雲間から射す日光の紫外線は、虫眼鏡の集光効果と同じように、むしろ通常よりも強さが増しているということを……。
ひなたの様子がおかしくなり始めたのは、それからすぐのことだった。
「…はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
それまで、まるで息の上がっていなかったひなたが突然、苦しそうな呼吸をし始め、それに気づいて彼女の傍へ近寄ってゆくと、顔も腕も真っ赤に腫れ上がって発疹も出ている。
「お、おい! どうしたんだよ!? 大丈夫か!?」
「シラコちゃん、大丈夫!?」
俺達は慌てて彼女のもとへ駆け寄ると、皆、驚いて声をかけた。
「ごめん……なんか、具合悪くなってきちゃった……あたし……そろそろ帰るね……」
虚ろな瞳で、申し訳なさそうに皆の顔を見回しながらそう断ったひなたは、よろよろと山を下りる道の方へ歩いて行こうとするが、すぐにふらつき転びそうになってしまう。
「おい! ほんとに大丈夫かよ? 仕方ねえな。ほら、腕に掴まれ。俺達が送ってってやるよ」
「さあ、左手は俺の方へ回すんだ」
先程までの誰よりも元気に走り回っていた彼女とはまるで別人のようなその姿に、見かねた俺と幸信が左右から肩を貸し、最早、自分で歩くことすらままならないひなたを引きずるようにして山道を下りてゆく……。
「ほら、しっかりしろ! あとちょっとの辛抱だぞ!」
「シラコちゃん、がんばって!」
ますます苦しそうになってゆく彼女の容態を気にしつつも、みんなで励ましながら樹々のトンネルを抜け、なるべく急いで麓の洋館を目指す。
「……よし。さあ、着いたぞ? ここを入ればもうゴールだ」
「……う、うん……あり……がとう……」
ようやく洋館脇の生垣へとたどり着き、先程も使ったその切れ目から、まずはひなたの体を横にして中へと押し込む。
それに続き、俺も再び敷地内へ入ろうとしたのだったが……。
ワンワン! …ワンワンワンワンっ…!
その時、突如けたたましく吠える犬の声が生垣の向こうから響いてきた。
「ひなた! どこに行ってたんだ!? 心配したじゃないか!」
「そうよ、ひなちゃん! 昼間は外に出ちゃいけないのわかってるでしょう!?」
続けて、そんな男性と女性の怒鳴る声も犬の鳴き声に混じって聞こえてくる。
遊びに夢中になっている間に、ひなたの両親が犬の散歩から帰って来たのだろう。
「ヤバっ……」
勝手に連れ出したことを怒られると思い、生垣に半身を突っ込んだまま止まる俺だったが、さらに事態は最悪の方向へと向かう。
「……ひなた? ……おい! ひなた、どうした!?」
「ひなちゃん? ……ひなちゃん、どうしたの!? ひなちゃん!? ひなちゃぁあん!」
生垣の枝葉の隙間から覗き見ると、傍らでハスキー犬がけたたましく吠える中、芝生の上に倒れ込んだひなたに大柄な中年男性が走り寄って抱き上げ、それを見た上品そうな女性が絶叫にも似た金切り声を上げている。
ここに到り、俺はようやく大変なことを仕出かしてしまったと、こどもながらにも理解した。
俺達が外へ連れ出したがために、彼女は日光アレルギーの発作を起こしてしまったのだ。
「お、おい、マズイぞ! に、逃げろっ!」
意識を失ったひなたを抱きかかえ、半狂乱になりながら家の中へ運んで行く両親の姿を前に、俺はただただ自分の犯してしまった罪が恐ろしく、慌てて生垣を飛び出すと声をひそめて皆にそう告げた。
中の騒ぎは皆にも聞こえていたらしく、顔を見合わせて頷くと、駆け出す俺の後について全員その場から一目散に逃げ出す。
その後、近くの木陰に隠れて見守っていると、やがて彼女を乗せた両親の車が鉄柵の扉を開けてどこかへ走り出してゆくのが見えた。
おそらくは、一番近い病院である村の診療所へ向かったのだろう……。
そう思い、気になった俺達が診療所へ行ってみると、案の定、先程の車がその駐車場に停まっていた。
だが、時を置かずして、どこからかサイレンの音が聞こえてきたかと思うと、下の町の病院から駆けつけた救急車が診療所の入口につけ、担架でひなたを素早く乗せると両親の車とともに急いで走り出てゆく。
それからどうなったかはこの時点ではわからなかったが、俺達はもう遊ぶ気にもならず、ひなたの身を案じる不安な心と、自分達の関与が知れればどれほど怒られるのかという恐怖心をそれぞれに抱えながら、その日はそれで解散となった。
風のウワサに、町の病院へ運ばれた彼女が、重度のアレルギー反応でそのまま命を落としたと聞いたのは後日のことである……。
あの時、俺が軽い気持ちで遊びになんて誘わなければ、ひなたは死ぬことなんてなかったのだ……。
その事実を知った時の罪悪感は、俺の心を壊すのには充分だった。
ひなたを死に追いやってしまった罪の意識と、いつそれがバレるのかという恐怖の重圧から、それまでの活発だった俺の性格は一変し、滅多に遊びに行くこともなくなって家にこもりがちになった。
それは、あたかも日中、外へ出ることを禁じられていた生前のひなたのようであり、あるいは彼女への後ろめたさが俺にそうさせていたのかもしれない……。
そんな俺の変化に親は心配していろいろ訊いてきたが、本当のことを告白するほどの勇気を俺は持ち合わせていなかった。
他のやつらも同じ思いだったのか? 誰もこの話題を口にすることは一度としてなかったようであるが、それでも俺の不安と恐怖は拭われることなく、むしろいつ、誰が口外するのかという疑心暗鬼が日を追うごとに募っていった。
また、顔を見るとその事実を思い出さずにはいられないため、みんなと会うことも極力避けるようになり、やがて夏休みが終わって学校が始まると、俺は自然に不登校となった。
さすがにそうなると親も本気で俺の身を案じ初め、診療所の須坂先生に診てもらったりもしたが、やはり罪を告白することはできず、俺は原因のよくわからない〝鬱〟ということで落ち着いた。
もっとも、そんな過度のストレスをずっと受け続ける精神状態でいたために、俺が〝鬱〟であったことはあながち間違いではなかっただろう……。
そんなわけで、名実ともに「心を病んだ」こどもになった俺は、一向に症状の改善が見れないことから環境を変えた方がよいという話が持ち上がり、当時、父親の単身赴任していた東京へと母親とともに引っ越すこととなった。
そして、それを契機に俺の脳は崩壊しかけた心を守るため、その頃の記憶をそっくり忘却の彼方へと追いやる暴挙に出たのである。
まさか10年後、その硬く閉ざされた記憶の扉が開けられることなどある
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