六 憔愕絞(2)

 気がつくと、俺は白くひんやりとした朝霧に包まれ、どこか見憶えのある、古い鉄筋コンクリートの建物の前に突っ立っていた……。


 所々、シミやひび割れの目立つ黒ずんだコンクリート製の外壁……中央部だけ一階分飛び出した正方形の塔に、ぴったりはめ込まれたまん丸く白い時計の文字盤……本棟のとなりに建つ三角屋根にクリーム色のモルタル壁を持つ体育館……かつて俺も通っていた、この村唯一の小学校だ。


「…………!」


 よく見れば、その校舎に開いた昇降口の前には、あの白いワンピースの少女がこちらを向いて静かに立っている。


 いつもと変わらず麦わら帽子を目深にかぶっているため、その顔の表情まではよくわからない。


「…………あっ!」


 俺の存在に気づいたのか? 少女は突然、踵を返すと、校舎の中に向かって勢いよく駆け出した。


「ま、待ってくれ!」


 なぜだか追い駆けなければならないような気がして、俺も慌ててその後について走り出す。


 薄暗い昇降口を入った彼女は、俺の前で左に折れ、煤けた白壁にリノリウムの貼られた床がどこまでも続く長い廊下を、その見えない遥か彼方の最奥目指してなおも走って行く……。


「待て! ……待ってくれっ!」


 昨日の朝と同様、俺はどうしても追いつけないその白い背中をただひたすらに追って走った。


 自然とこどもの頃に見ていた記憶が蘇ってくる、とても懐かしい感じのする薄汚れた古い廊下……だが、外から見た校舎のサイズに比して、左右に等間隔で並ぶ無数の教室とガラス窓に挟まれたその細長い空間は、走っても走っても終わりの見えない、まるで異次元にでも閉じ込められてしまったかのような不安と恐怖を掻き立てる異様な長さだ。


「待て! いったいどこまで行く…ハッ!」


 ところが、その永遠に続くかと思われたどこまでも変わらぬ同じ景色が唐突に終わりを告げ、少女と俺は再び屋外へと突然飛び出した。


 コンクリ吹きっ放しの床と、古めかしい蛍光灯のついた屋根を支える壁のない・・・・錆びた鉄骨の柱……その奥に立ち塞がるひび割れたクリーム色のモルタル壁……本棟と体育館を繋ぐ渡り廊下だ。


 そのほぼ屋外といえる廊下も一気に駆け抜け、少女はクリーム色の壁につけられた分厚い鉄製の扉にぶつかると、今度は右に折れて体育館の脇を進んで行く。


「……待て! ……ハァ、ハァ……今度はどこへ連れてこうって言うんだ!?」


 上がる息を堪えながら必死に彼女の後について行くと、体育館を回り込んだ少女はその裏にある、水色のペンキの剥げかかった大きな木製の扉を触れることもなく開け放ち、走るスピードそのままにその中へと姿を消す。


 場所やその扉の形状から考えて、おそらくは用具置き場か何かだろう。ぼんやりとした俺の記憶の中でも、そこはそんな場所だったように思われる。


「…ハァ……ハァ……そこに、何かあるのか!?」


 こちらも足を止めることなく、体育館の外壁に開いたその四角く薄暗い穴の中へと続いて躊躇いもなく走り込む。


だが……。


「…うぐっ!?」


 入った瞬間、天井からぶら下がっていた荒縄の輪が俺の首にすぽりと引っかかる。


「うぐぅぅぅっ…!」


 と、間髪置かずにその縄は上方に引っ張られ、チクチクとした触感の繊維質が俺の首にギュウぅっと食い込んだ――。




「――うわぁあぁあああっ…!」


 俺は、絶叫とともにベッドの上ではね起きた。


「…ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……」


 首に手を当てて確かめると縄はかかってないし、どうやら息はできるようであるが、その皮膚の上には荒縄の食い込んだ生々しい感覚と、喉ぼとけを潰され、気管を塞がれた息苦しさがいまだリアルに残っている。


 汗でぐっしょり濡れた額を拭いながら辺りを見回すと、そこは埃っぽく、石灰やら運動会の大玉やら綱引きの綱やらが置かれた用具置き場ではなく、薄暗いが瀟洒な家具と調度品の置かれたペンションの一室である。


「……夢……だったのか……」


 そこで、ようやく俺は悪夢を見ていたことを理解した。


 しかし、夢にしてはあまりにもリアルだった……首にかかった縄の感覚もまだ鮮明に覚えてるし、あの少女を走って追いかけた感じは、まさに昨日の朝と同じものだ……。


「……まさかっ! …ゴホ……ゴホ、ゴホ…」


 今も残る息苦しさに思わず咳き込みながら、俺はベッドを飛び降りると窓に近づいてカーテンを乱暴に開く。


「………………考えすぎか」


 だが、昨日とは違い、朝霧に包まれた湖畔の岸辺にあの白い少女の姿を見つけることはできなかった。


 もしや、そんな予知夢なのではとも疑ったのだが、どうやらその予想は外れていたようだ。


「ハァ…嫌な夢だったな……オーナーに頼んでシャワーでも借りるか……」


 壁の時計を見れば、時刻はすでに6時を回っている。


 もう一度寝るにしては中途半端だし、すっかり目が醒めてしまって二度寝するような気分でもない。


 それにまた寝汗で全身びっしょりになってしまったので、もうオーナー夫婦も起きていることだろうから、俺はシャワーを借りてさっぱりすることにした――。

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