一 奇郷(2)

 バス停のある広場を出発した俺達の車は、先刻、バスの入って行ったのと同じ湖畔を周回する道を快適な速さで進んで行く……。


 一応、二車線の両面通行になっているこの公道も、空いてるどころか他に車の影は一台もなく、対向車とすれ違うこともないのでも最早、貸し切り状態だ。


 車窓から走り去るその景色を眺めてみれば、白樺の木々に囲まれた湖の水は陽光を浴びて、湖面を吹く夏の風にさざ波がキラキラと水晶のように輝いている。


「…………!?」


 と、ぼんやりその美しい光景を眺めていた俺の目に、周りの景色を構成する要素とは明らかに異質な、この時と場所で見るには奇妙なものが映った。


 麦わら帽子に白のワンピース、そのワンピースよりなお白い肌……あの、先程バス停にいた少女だ。


 あの白い少女が白樺の木々の隙間にひっそりと立ち、ぼんやりと物憂げな色を湛えた虚ろな瞳でじっとこちらを見つめていたのだ。


 ……いや、そんなはずはない。こちらは車で来たのだ。どう考えてもこどもの足で先にここまで来れるはずがない。


……いや、大人だって車の先を越すなんてことは不可能だ。


 では、似ているけど、さっきの子とはまったく別人の……。


「…うわっ!」


 思わずガラス窓にへばりつき、高速で後へ遠ざかってゆく少女の姿を見つめていると、不意に車がハンドルを切り、右側の横道に逸れて湖から離れ始めた。


「…ん? どうかしたか?」


 妙な声を上げた俺に、幸信が怪訝な顔をこちらに向けて尋ねる。


「いや、それが…………あ、いや、なんでもない……」


 なんだか妙に印象に残るあのルックスのためか? けっこうな驚きだったので少々興奮気味に話しかけたのであるが、この驚きの理由をうまく説明できないし、話せばずいぶんと長くなりそうなので、今度もやっぱり幸信に言うのはやめにした。


 そもそもすべては俺の見間違いで、二人は多少見てくれが似ているだけの、まったくの別人だってこともありえる。考えたら、白のワンピースに麦わら帽子なんて、あのくらいの女の子の夏の装いとしてはよくありそうなものだ。


 そんな俺の不審な態度に、幸信は不思議そうに小首を傾げながらもそれ以上興味を示すことはなく、彼がハンドルを握る車は湖畔を離れて、青々と稲穂がたなびく一面の田園地帯へと進んで行った。


 この尾茂井沢村は、先程の直径4km弱の小さな湖〝神庭湖かんばこ〟を囲むようにしてできた村で、今でこそこんなさびれた感じになっているが、バブルの頃などには避暑池・別荘地として非常に人気があり、現在でも細々とではあるものの、別荘用不動産や観光業を売りにしている……と、某Web百科事典に書いてあった。


 だが、そんな別荘や宿泊施設、食事処などがあるのは湖の周囲だけであり、少し湖畔から離れると、本来の村の中心であった、湖水を用水にして稲作を行う農業地帯が広がっているのだ。


 俺の通っていた学校や当時住んでた家、これから行く飯田真人ら友人達の家も、まさにそちらにある。


 風にうねる稲田の海を真っ二つに切り裂き、〝モーセの十戒〟の如く開いた田舎道をしばらく疾走すると、特になんの変哲もない、よく地方都市に見かけるような一軒の民家に辿り着く。


 なんとなく来たことあるような記憶も残るその幸信の家にお邪魔し、彼と一緒に持ってきた喪服に着替えさせてもらった後、「お茶を飲んでけ」という親切な彼の両親をなんとか振り切り、そこからは田舎道を歩いて本来の目的地へと向かった。


 まさに〝日本の田舎〟然りとした田園風景を見回しながら、本当の記憶なのか、それともただの思い込みなのか判別のつかない既視感デジャヴュを感じつつ歩いていると、やがて白黒の鯨幕で漆喰の塀を覆った、一際大きく立派なお屋敷が見えてくる。


 そのお金持ち然りとしたお屋敷こそが俺達の向かっている先――飯田真人の家だ。


 ここへ来てみたら、不意に当時の記憶が鮮明に蘇ってきた。


 ……そうだ。こどもの頃に遊びに来た時も、やけに大きい家だと思ったものである。


 古めかしいがずいぶん立派な長屋門を潜ると、いわゆる「切妻造り」と呼ばれる断面三角形の屋根をした、これまた文化財指定されていてもおかしくないような純和風の母屋が眼前にドン! とそびえ立っている。


 なぜこんなに立派なお屋敷なのかというと、真人の家は村内でも有数の大農家だからだ。確か江戸時代には庄屋みたいなことをやっていたとかなんとか聞いたような気もする。


 農家なので門と母屋の間には、農作業をするための広い敷地があり、そこにはこれまでの人気ひとけのない風景が嘘だったかのように、どこから集まってきたものか、異様に大勢の人々で溢れ返っている。


 もちろん、みんな俺達と同じように真っ黒い喪服姿だ。


「…………あ!」


 そんな人混みの中、雑談をしていた若い女性三人が、入ってきた俺達の姿を見つけると、驚いたように目を大きく見開いてこちらへ近づいてきた。


 皆、歳は俺達と同じくらい、一人は黒髪ロングに知的なメガネをかけたクールビューティー、一人はそれと対照的に茶髪をキャバ嬢のように盛り、つけまつげもバッチリなちょっと遊んでそうな、最後の一人はオカッパ頭に前髪パッツンの、こけしのような小柄で地味な女の子だ。


「もしかしてあなた、科野修史しなのしゅうじ!?」

 

 メガネのクールビューティーが、半信半疑な様子で唐突に俺のフルネームを口走った。


「どう見たってシュウ以外ありえないじゃん! あんた、ほんと変わらないね!」


 すると、茶髪のチャラい方がその質問を無意味だとでもいうように、メイクで大きくした眼で俺の顔をまじまじと見つめながら、少々興奮気味に弾んだ声を上げる。


「シュウくんもあたし達のこと憶えてる?」


 反対になんだか間延びのするようなゆっくりとした穏やかな口調で、オカッパのこけしも続け様にそう尋ねてくる。


 もちろん、その三人の顔…というか全身を覆う雰囲気には、幸信と同じように見憶えがある……やはり、この村に住んでいた頃の同級生だ。


「ああ。アズに、スズに、それからホタルだろ? おまえらだってぜんぜん変わってないからな」


 その懐かしい顔をそれぞれ噛みしめるようにじっくり眺めながら、こちらも本名より愛着があり、しっくりとくるあだ名で答え返した。


「あら、そうかしら?」


「何言ってんの!? ぜんぜんオトナっぽくなってるじゃん!」


「エヘヘ…あたしはよくそう言われるかな」


 それに対してクールビューティー――〝アズ〟こと松本あずさとチャラい〝スズ〟――中野美鈴なかのみすずは得心がいかぬといううように各々の言葉で否定してくるが、パッツンこけし――〝ホタル〟こと辰野たつのほたるだけは自覚しているらしく苦笑いを浮かべている。


「でも、よく来てくれたわね。その……ここじゃいろいろあったから……」


 久々の再会に少しばかり気恥ずかしさを感じつつ、まるで同窓会のようにそんな挨拶を交わす俺達だったが、あずさのその言葉を期に皆の顔色が不意に暗く曇る。


やはり、心を病んでいた俺に気を遣ってくれているのだろう。


「いや、さっきもユキに話したんだけど、じつはその頃のことよく憶えてないんだよ。ま、普通に考えれば、憶えてないこと自体、かなり異常っていえば異常なんだろうけどさ、おかげで今はそう言われてもピンとこないくらい、ぜんぜん平気なんだよな。だから、そんな気にしてくれなくても大丈夫だから」


 心配とも、同情ともとれるなんとも居心地の悪い視線を向ける女子三人に、俺はそれを払拭しようと正直なところを先程と同じように答える。


「憶えてない……?」


「あ、でも、おまえらのことだけは残念ながらよく憶えてるから心配するな。もちろん〝マトン〟のこともな」


 そして、やはり幸信同様、今度は驚きの表情を浮かべて唖然とする彼女達を安心させるため、続けてそんな補足説明を付け加えた。


「だから、わざわざ知らせてくれたのに来ないわけないだろ? マトン……真人が亡くなったっていうのにさ」


 そう……俺がこの尾茂井沢村を10年ぶりに訪れた目的――それは、幸信達からの久方ぶりの手紙で知らされた、小学校の頃の仲間の一人・飯田真人の葬儀に出るためだったのである。

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