シラコ

平中なごん

一 奇郷

一 奇郷(1)

 どこまでも青く澄んだ空と天を突く大きな真っ白い入道雲……眩しい夏の日差しが降り注ぎ、ゆらゆらと陽炎立ち上るひび割れたアスファルトの上に俺は降り立った。


「ふぅ……」


 全身を包み込む、もわんとした暑い空気に額の汗を手の甲で拭い、ギラギラと照りつける太陽を思わず見上げていると、背後でブロロロ…と調子の悪いエンジン音を響かせ、随分と古い車体のオンボロ路線バスが湖を周回する道の方へ走り去って行く。


 一昔前は信州――長野県といえば避暑地のイメージだったが、昨今は温暖化の影響か、猛暑の度合いは東京などとも大差ない。


 目の前に立つ錆びたバス停の標識柱には「尾茂井沢おもいざわ」と擦れた文字で書かれている。


 尾茂井沢…………俺が小学生の頃に住んでいた村の名前だ。


 俺がまだ赤ん坊だった頃の話だが、父親がこの村の出身で、父の両親――つまり俺の祖父母が亡くなったために、それまで暮らしていた長野市からこの山の中の村へ移り住んだのだという。


ただし、その家も東京へ引っ越してから処分してしまったので、今はその場所へ行ってもただの草生した平地しか残ってないらしいが……。


 確か小学校4年の時に引っ越したから、この村へ来るのは約10年振りになるということか。


 まるで人気ひとけのないその広場の真ん中まで歩き、俺は失われた思い出を探すようにして、ぐるっと辺りを見回してみる……今が盛りと緑の繁茂する山を背景に、小さな土産物屋や食事処、うらぶれたスーパーなどが建ち並ぶその景色は、なんだかとても懐かしいような気もするし、そんなのただの勘違いで、田舎というだけでノスタルジーを感じてしまう脳が創り出した幻影のようにもあるいは思える。


 10年も前の話なのだから、それも当然といえば当然なのかもしれないが、ここに住んでいた頃の記憶はなんだかぼんやりとしていて、憶えていないことも多い。特に引っ越した前後の頃はごっそり記憶が欠落していると言ってもいいくらいだ。


 憶えていないのだから確かなことは言えないのだけれど、どうやらその当時、俺はなんらかの理由から心の病を患い、家にひきこもっていたらしいのだ。


 医者に診てもらっても一向に治らず、そこで、環境を変えるために父親が単身赴任をしていた東京へ母親ともども引っ越したみたいなのだが、親もその原因についてははっきりわかっていないのか? 訊いても曖昧な答えしか返ってこない。


朧げに残る記憶や状況から推測するに、いじめがあったとか、そういうことではないと思うのだが……その証拠に、やつらのことだけは今だって……。


「……!」


 そんなことを無意識に考えながらバス停の方へ視線を戻すと、先程までは誰もいなかった待合のベンチに、一人の少女がいつの間にか腰かけていた。


 歳は小学校高学年くらいだろうか? 真っ白いノースリーブのワンピースに大きな麦わら帽子をかぶった、長い黒髪の小さくてカワイらしい女の子が、朽ちかけた木造の覆い屋の中で、塗装の剥げた某コーラの赤いベンチの上にちょこんと座っている。


 麦わら帽子の下に見える顔は、幼いながらも鼻筋が通り、涼やかな瞳をしたけっこうな美少女であるが、一番目を惹くのはその白い肌だ。


 大袈裟にいえば、ワンピースよりもむしろ白いくらいに、その肌は磁器でできた人形か石膏像のように真っ白い。


 一見、スラブ系の外国人かハーフのように思えなくもないが、それよりもずっと屋内に籠っていた病人のような、どこか不健康そうな印象を受ける白さだ。


 その少女の薄茶色い透き通った瞳も、ぼんやりと俺のことを見返している。


 この顔、どこかで見たことあるような、ないような……もしかして、以前住んでいた時の知り合いか?


 いや、それにしては歳が若すぎるだろう。今年、俺は20歳になるんだから、小学生だとすれば当時まだ生まれているはずがない。


 では、憶えていないが知り合いのこどもか何かってことも……。


「おい、シュウ……修史しゅうじか?」


 その時、不意に背後から俺の名前と懐かしいあだ名を呼ぶ声がした。


「……!?」


 驚いて振り返ると、そこには背の高い、精悍な顔立ちの男が立っていた。


 爽やかに短い髪を立て、黒のタンクトップに赤いシャツを羽織り、七分丈のカーキのカーゴパンツを穿いている。


 そのいかにもスポーツマンっぽい、自意識過剰な雰囲気漂う顔には見覚えがある。


 10年の月日が経っていても、一目見ればすぐにわかる……小学校の頃の同級生、上田幸信うえだゆきのぶだ。


「ああ、ユキ。久しぶりだな」


 俺も思わず顔を綻ばすと、やはり懐かしい響きを持った呼び名を口にして彼に答える。


「久しぶりどころじゃないだろう、10年ぶりだぞ? ま、それでもぜんぜん変わってないから、すぐにおまえだってわかったけどな」


 まるで数ヶ月ぶりにあったかのような挨拶をする俺に、10年分成長した幸信は眉を「ハ」の字にして、相変わらずのツッコミ口調で文句をつけてくる。だが、どうやら向こうも俺と同じ感想を抱いたようだ。


 その頃の記憶は曖昧なのだが、不思議と幸信を含めた友人達のことはよく憶えている。それだけ仲がよかったということだろう。


「こっちもだ。ユキも昔のまんまだな。元気だったか? …って訊くまでもなく元気そうだな」


「ああ、なんとかな。それより、おまえの方こそ、その……もう大丈夫なのか?」


 同じようなことを言ってから、続いて月並みな質問を俺が口にすると、幸信は不意に暗い表情を作り、ずいぶんと訊きにくそうな様子で同様の質問を俺に返した。


 一瞬、なんのことだかわからなかったが、おそらくは例の心の病のことを言っているのだろう。


 今はまったくそんなもないし、その時の記憶がないので俺にはピンとこないのだが、そう言われてみれば、彼が俺と別れたのはまさに心を病んでいる時だったはずだ。それ以来、ずっと会っていなかったのだから、きっと心配していてくれたのだろう。


「いやあ、それが、俺が病んでたって頃のこと、じつはなんも憶えてないんだよな。ま、憶えてないくらいだからかぜんぜん平気なんだけど…」


「憶えてない? ……まさか、あのこともまったく憶えてないっていうのか!?」


 心配をかけまいと、俺は苦笑いを浮かべながら正直にその事実を述べたのだが、すると幸信はひどく驚いたように目を見開き、非難するかの如く少し声を荒げる。


「あのこと?」


「……ああ、いや、なんでもない……そうか。なんともないんなら、それはよかった。他のみんなもずっと心配していたからな」


 だが、俺が訝しげに眉をひそめて聞き返すと、幸信は明らかに「マズった」というように目を逸らし、誤魔化すかの如くそう付け加えた。


 なんだ〝あのこと〟って? やっぱりあの頃、心を病むくらいに大変なことが俺の身の上にあったということなのか?


「さて、こんなとこで立ち話してる場合でもなかったな。おまえ、マトン・・・の家にはどうやって行くつもりだ?」


 そして、話を逸らすためもあってか、そもそも俺がこの村を久々に訪れた目的である、その本題・・を切り出す。


「ん? バスは湖回るのしかないようだし、歩いて行くつもりだけど。なに、記憶に曖昧な部分はあっても、おまえらの家はなんとなく憶えてるからな」


「憶えてるって、距離感間違ってるだろ? こっからはけっこうあるぞ? 乗ってけよ。そこのスーパーに香典袋買いに来たんだが、そんな俺に見かけられたことを幸運に思え」


 脳の奥にしまい込まれた、セピア色に霞んだ村の情景を思い浮かべながら俺が答えると、信幸は手にした鍵をカチャカチャ揺らしながら、背後の駐車場に停まるVR車の方を振り返った。


「ま、着替えなきゃいけないし、俺の家まで行って、そこからは歩きだけどな。おまえもどっか着替える場所必要だろ? なんなら、うちを使うといい」


「おお、さすが地元民。いろいろ融通きくねえ。んじゃ、お言葉に甘えて」


 遠くなくてもこの暑さの中を徒歩で行くのもなんだし、せっかくのお申し出をお断りする理由はない。それに、さすがにこのままの格好でお伺いするわけにもいかないので、遠慮なく彼を便利に使わせてもらうことにしよう。


「……あれ?」


 迷わず首を縦に振り、VR車の方へと幸信について歩き出した際、なんの気なしに再び待合のベンチに目を向けてみると、すでに先程の白いワンピースを着た女の子はいなくなっていた。


 どこに行ったのだろうと周りを見回してみても、どこにもその姿は見あたらない。幸信との話に夢中になっている間に、かなり遠くまで行ってしまったのだろか?


「なんだ? 忘れ物か?」


 ベンチを眺めたり、キョロキョロと辺りを見回す俺を見て、勘違いした幸信がそう尋ねた。


「いや、大丈夫だ。それじゃ、安全運転でよろしく頼むぜ、専属ドライバーさん」


「フン。誰が専属だよ」


 女の子の話をするのもなんだかロリコンだという誤解を受けそうだったので、俺は冗談めかした台詞を口に助手席へ乗り込むと、幸信とともに〝マトン〟こと飯田真人いいだまさとの家へと向かうことにした。

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