第5話

 無事に恢復した後も、僕と彼女は相変わらず一緒にいて、僕は知らなかった彼女の痛みを知るようになった。そして死のうとしたことを心から後悔した。そんなことをしたって結局のところ、何もならないのだ。逃避にもなってやしない。数ある厄介事のひとつから目を背けただけに過ぎない。それよりも僕は。


 暗闇には慣れない。いつでも光を探してる。

 僕は子宮に思いを馳せた。幸福に浸れる母なる大地。

 問題は別にあることに、窓辺から枯れた桜の枝枝の隙間を細かな雪の結晶が落ちていくのを眺めながら思った。落ちゆくひとつひとつの雪は、地面に辿り着くとたちまちに消えてしまう。僕らの生だ。僕らは天から発せられ、地に着くその短い間で自らの生を肯定しなければならない。そして彼女の言った通り、僕らは記憶や時間を束ねている。それらは束ねられることによって機能し、僕らは縛られることによって人として感情を有し、生きられる。

 しかし、制限で生まれる定立では、否定的な意味合いを免れない。だから僕らはそうではない方法で、幸福を探さなくては、見つけなくてはならない。そこでこそ生は肯定され、生きられるのだ。


 冬はだんだんと足音を軽くし、春がその息吹で凍えた街を舐め始める。僕は必死に生きられる道を求めていた。だから彼女を部屋に呼んだ。夜だった。僕らがいるのはいつだって夜だ。

「どうしたの?」

「ううん、会いたかっただけ」

「そう」彼女は何も不審がることはなかった。それもそうだ。僕は彼女に会いたかったのだから。ずっとずっと会いたかったのだから。

 現実にいる限り断絶される。僕らは分断された部屋の中でしか生きられない。思い出を感覚するためには制御を解かなくてはならないのだ。そうしたならば、どこまでも繋がった部屋同士を仕切る壁は一気に瓦解し、あらゆる記憶や時間や感覚が溶け合い繋がって、蔓延しては空間を満たし、僕と彼女は二つの孤独から脱出することができる。僕は彼女の中で生き、彼女は僕の中で生き、そこでこそ呼吸器官は息を吹き返すのだ。

 彼女と僕は狭い部屋に言葉を落とすことで、夜をより深い暗さで彩った。夜に僕は光を求める。この狭い部屋を子宮とする方法、永遠を瞬間へと変える方法を僕はもう知っていた。僕は彼女と多くの時間を過ごした。僕と彼女はやさしさを通じて思いを伝え、助け助けられ、救い救われて、ここまでやってきた。けれど、それも言ってしまえば断絶され、薄められたものだった。分断線としての互いを共振させることで僕と彼女は一緒にいれたのだ。だけど僕は、今こそ、今夜こそ彼女を彼女とすることを可能とする。

 彼女は窓から外を見ていた。静かな夜で、何もかもが暴力さを隠し、平和な世界を幻出させていた。桜もいくらか蕾がひらいて、灯った可憐で儚い花が月光の青に照らされて、どこからか讃美歌が流れてきてもおかしくない光景だった。

 いや、僕の耳には確かに福音を秘めた唄が聞こえていたのだ。

 僕はそっと台所から包丁を取り出し、窓の桟に凭れて外を眺めていた彼女の背に突きつけた。

 思い出せない記憶も、これから来る未来も、一緒に今として生きられるように。

 僕は彼女のあたたかい息を、落とした言葉を、握る手のやさしさ、指が弾いた音符の感情、からだの持っていた切なさを有限なものとはしない。僕はその刹那的な快楽を絶対に過ぎ去らせはしないのだ。一瞬一瞬の快楽を刹那性と共に、僕に宿らせ、僕は生きる。

 彼女に刃を深く突き、何度も引き抜いては刺した。冗談みたいに血がドバドバと出て、床を一種の絵画とした。彼女は目を見開いて驚いた風で、それに抗おうともしたが、僕はそれを制して何回だって刺した。胃を、肺を、肝臓を。ごめんね、でもこれで君も僕も生きられるんだ。存在が引き裂かれる血の臭いに混濁した頭が悦びの悲鳴を上げる。彼女はあらゆるものを手放して、放たれたそれらは僕に襲いかかることだろう。無邪気になって、悪びれもせず。けれど、そうでなくてはならない。繋ぎとめる楔から解放されてこそ、それら、期待も記憶も時間も蘇ることができ、僕らは生きることができるのだ。君と過ごした一瞬が、何回だって回帰する。僕は床に倒れた彼女に馬乗りになって、息が止まっても刺し続けるのをやめなかった。いつかの雨上がりの匂いがした。視界が滲む。雨に曝された血は散らばる桜の花弁だった。笑みが頬に翳る。彼女の息が完全に止まり、これで全ての時間が動き出すのだから……。



 僕は狭い部屋で、昔、桜の花弁が僕に一時の希望を与えてくれたことを思い出す。

 足元に転がる死骸、今や青白い光が差し込む中で部屋を満たすは朱い花弁だ。教会の鐘の音が空間に広がるように、彼女が僕を包んでいく。

 彼女が僕となって、今こそ現実は身体に襲いかかり、僕は多幸感の中に落ちて、生まれる。もうすぐ朝の光が線となって窓からやってくることだろう。そうして僕のようやく手にした本当の虚無を、露わに照らし出してゆくのだ。

(了)

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朱い花弁 四流色夜空 @yorui_yozora

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