第4話

「この部屋からは桜が見えます。この桜は三月の終わり頃には花をつけ、光のような薄紅色の花弁が夜を照らし始めます。桜は、どうしてそんなに健気なのかと心に痛みが走るほどに、それは醜い地上に美しく、清く、咲き誇ります。見る者を後押しする使命の光をもって、その花弁は風に吹かれるごとに舞い散って、命を擲っていくのです。皐月にもなれば、花弁は全て露の生を枯らし、元いた場所は毛虫がつくだけの横暴に茂る葉々に奪い尽くされてしまいます。しかし、たかが一二カ月先に、そんな未来が待ち受けるのにも関わらず、蕾が開いてからの桜の花は、それを窺わせない力強さをもって、散っている間すら空気を彩り、地面に落ちて誰かの靴に踏みつけられるまで、誰かに喜びを投げかけ、幸せを謳い、その生を全うするのです。そうでもあれば、木が花をつけてない間も、失われてる誇りがその幹から浮き上がってくるようで、冬の惨めな状態にあっても、それはどこか尊いものに思えてくるのです。分かりますか? その儚さ、その気高さ、その強さ。薄紅色の花弁は、咲いている一瞬一瞬を、少しの間も気を抜かず、懸命に、自分以外に代われる者などないと言いたげに、堂々と、高らかに、生きているのです。咲いている間がそれほどに綺麗だから、咲いてない間にも高貴に清廉であり続けられるのです。何があっても生きている今を肯定するあり方、これはこうでしかなかった、これは僕が全て望んだことだ、誰にも否定させはしないと、肌で感じるあらゆるものを、目の前に現前するものを、ひとつ残らず、余すところなく、かけがえのないものとする運命愛。

 いつからか僕に好きと言ってくれる女性がいました。彼女は僕を好きと言い、僕も彼女を好きと言いました。それによって僕の壊死しゆく精神は遅延するようになり、食事を一日三回摂ることも増えました。僕は彼女の言葉によって罪過を清められ、自らの存在を、信頼を押しつけるようにして預けました。しかし、彼女にとって言葉はモノでしかないのです。僕と彼女は違う存在です。そんなことは頭では知っていました。けれど僕は彼女の内部に取り込まれ、そこで安心の羊水に包まれて生きていたかった、どうしても。そこにしか希望の楼閣は見えず、そこにしか澄んだ空気はなかった。

 けれど、蜃気楼。

 それはことあるごとに、把握できない彼女の行動が目に映るたびに、心で増幅され、ざわめきとなって、不安となって、僕のやっと見つけた安住の住処がバラバラな欠片に成り果てる光景を、脳裡に浮かび上がらせるのです。以前の健全だった誇大妄想狂的な自分は暗部の深奥に遠ざかり、残った半身の自分の肉の筋は強張り、痙攣を始め、今や希望のビジョンの維持のために自らの傲慢を備給することに疲れてしまったのです。

 しかし一方で、道路を歩く人々、街に棲みつく人々は、そんな心的障害を物ともせずに、腕を棒となるまで酷使し、据傲を炉にくべることに躊躇いはしません。彼ら自身の業は社会に充満した偽善を取り込んで、パチパチと豪奢に燃え上がり、それぞれの実存を現働化する。それは恥知らずにも、苦労人の生き方です。そんな彼らを見る時、僕の眼差しの光は彼らの在り方に、桜の姿を重ねるのです。

 あの儚くも力強い桜花です。

 桜も、彼らも、瞬間的現在を、来たりゆく即時的な未来と、過ぎ去りゆく即時的な過去の狭間に配置し、それ以外の、もう蘇生の叶わないところにまで追いやられて呪詛を吐く機能しか残されていない往時や、目を焼く光線がいくつもの鏡に映し出され、屈折し、交差する中に狂ったように幻出する後来を亡きものと無視して扱います。それらはあっても有害なだけ、役に立たない不穏分子。そんなのに左右されず、彼らも桜も瞬間的な生から快楽だけを抜き取って、享楽的に生きるのです。今を楽しめるということは、今が楽しければいいことに由来します。それは尊い時の欠片たちを蔑ろにすることではありますが、しかし本質的には正しいことなのです。それら、日常の深層にあるものを過剰に大事にすることは、死刑が決まった囚人に無駄な思い入れをするようなもので、生きた現在が不可視な時の断片に阻害されることほど、ナンセンスなことはありません。インスタントな真理だとして、本当は中身のない生き方だとして、全体からみれば意味のない実像だとして、実質的にはそれが正しい在り方なのです。罪悪感なんてないほうがいい、そんな取るに足らない瑣末なもの、捨ててしまえばいいのです。誰も見てないんだ……、きっとそうだ。綺麗事を言って誰かに迷惑をかけるくらいなら死んだ方がマシなんだ、死刑執行人に懺悔して首を差し出せばいい、結局自分が救われたいだけだ、逃げてるだけだ、楽をしたいだけだ、こんなの生きてるだけで有害だ、桜のように生きれたらなんて、彼女が僕を好きだったらなんて、全部嘘だ、あり得ない妄想だ、知っていた、都合のいい独白だ、知っている、もう無理だ、もう無駄だ、もう続かないこと、さようなら、さようなら……」

 涙が紙面に落ち、文字が滲んで、ふと我に返った。

 いつの間にか、感傷的になってしまった自分が醜くて、そこまで書いた便箋を、すぐさまビリビリと引き裂いて捨てた。

 何が遺書だ。所詮、自分などに聖なる終極の告白は似つかわしくもない。

 僕は洗面所から剃刀を持ってきて、机に置き、傍に落ちていた黄色いチラシの裏側にペンの先を当てた。

 栓が抜かれ、内包していた水が流れ尽きてしまったプールのように、言葉はもう湧きあがってこなかった。仕方がないので、ありあわせにただ線の細い文字で一行、

「もう死にます。ごめんなさい」

 とだけ記して、剃刀を持って、刃を左の手首に当てる。ひやりとした感触、背筋が微かに固くなる。僕はこうするしかないんだとためいきを漏らし、

 ――横ではなく、縦に。

 ――横ではなく、縦だ。

 少し引っかかった気がして、引き抜いてもう一度。

 出来るだけ深く。

 痛かったが、感覚的な刺激よりも心理的な抵抗の方が強かった。力が弱まることを恐れ、思考をヴェールで覆ってやろうとしたが、何か考えようと思っても、特定の何かを浮かべることはできず、駅前の様子やファーストフード店や中学校、いつか親と行った湖、祖母の家、高校の担任、誰か分からない顔、顔、顔、そんなのが次々と瞬く間に現れては消え、サブリミナル効果のように、これが走馬灯なのかと思っていると、壁際にある時計の音がやけに鋭くて、チクタクチクタクとだけ、それが無限に、細かくも鬱陶しいほど多く、それ以外は無音で、あとは身体が軽くなったのか重力がなくなったのか、自分が底の無い谷に落ちていくような錯覚、だんだんと意識が遠のくのが感じられ、眠りのような心地すらして、でもふとすぐ近くに鉛筆の芯を突きたてられるのに似た軽い痛みが走って、手元を見るに、左手は真紅、そこから黒い血が溢れ落ち、床を汚していた。

 僕は目を瞑った。身体全体がそうしろと言っていたのだ。僕はもう何も抗うことなどなかった。身体のあちこちに重い鎖が巻きつけられ、土の匂いのする広大な大地に仰向けになって、まだ暗い夜の空を眺めながら身を埋める光景が網膜に浮かんだ。


 記憶は身体からも精神からも離れたようだった。記憶が離され、体感が零となり、僕が扱えるものはなくなって、俯瞰だけ、まるで夢の世界にいるようだった。

 果てしなく続く草原だった。脛ほどの雑草が一面に広がり、緩やかな風が翔け抜け、端がちぢれ西に行く雲のひとつ越しに射す黄金の光がぼやりと辺りを照らしていた。見えない太陽の光は雲が流れるごとに、その輝きを異なったものとさせ、そのたびに世界の色は少しずつ変わった。朝方のような雰囲気の中、遠くには靄ができていて霞み、その奥に連なり立つ青い山嶺が微かに映えていた。草には露が降り、僕はそこに寝そべりいつまでも空を見ていた。次第に、空は暗さを帯びて細かな雪の結晶が降ってくる。僕は涙を流した。なぜなら雪は融けゆくから。なぜなら過ぎゆかないものなどないから。どんどん暗さは深くなってくる。本当の夜が到来してくるにつれて、僕の鼻腔は雨の匂いに支配された。とても長い時間が経って、何も見えなくなって、ただ雨の匂い、雨が染み込んだ土の匂いがした。地響きが起こり、遠くに見えた山嶺は持ちあがり、どこかで折り線がつけられたのだろう、浮き上がった地面が空を覆ったかと思うと、こちら側に倒れ込んできた。

 世界は暗転と共に折り畳まれ扉となって、開かれる。


 目を開けても、まだ夢現といった感じでただ漠然と、僕は雨上がりを思い浮かべていた。そうしていると、嗅ぎ慣れた匂いがして、頬に生温かさを感じた。霧が晴れてくるように、辺りの状況が滲みだしてきて、服を引っ張られる感覚と、音、激しい荒波のような声が聞こえてきた。

 途端、僕は部屋にいた。そして、そういえば鍵を掛けていなかったなと呆然と思った。

 横たわる僕のお腹辺りに顔を埋めて彼女が嗚咽を漏らしていて、僕の頬も腕もお腹も生温かく湿っていて、どうやらそれは彼女の涙のようだった。見ると、部屋の中は誰かが喧嘩をした跡のように乱雑になっており、机はずれ、本はいくつか棚から落ち、ペットボトルは床に落ち、玄関の横にある台所の前には買い物袋が無造作に投げ出され、倒れたその口から野菜が顔を出していて、視線を戻すと、切った腕には包帯が厚く何重にも巻かれていて潔白さが上塗りされていたが、袖口や隠されていない肌には褪せた血がざらりとこびりついて固まっていた。

 僕が目を覚ましたのが分かったのか、彼女は顔を上げた。まだ泣きじゃくっていた。僕は離人症的に驚いていた。彼女の表情には見たこともない皺が刻まれ、瞼は腫れて、淡さを基調とする彼女の性格からは考えられない様相が、そこに映し出されていた。

 彼女が僕を揺さぶると、貧血からか頭がくらくらした。彼女の涙がぽたぽたと僕に落ちた。

「私のことも考えてよ」彼女は叫んだ。

「僕は……」

 何らかの言葉を返そうとしたが、彼女は感情の波に任せるがまま、矢継ぎ早に言葉を紡いだので、僕は耳を澄ませてそれを聞くことにした。それは自己愛に生きてるにしても必死すぎるほどの剣幕だったのだ。

「ねえ、分かる?」彼女との間には水面の膜があるようで、海底に落ちた僕はそれをただ聞いていた。「ねえ、あなたが死んだら、私はどうしたらいいの? 私とあなたは多くの時間を経験したわ。そのことをちゃんと分かっているの? 二人の間にあったことは、どうせ過ぎ去る意味のないものだなんて、どうせなくなっちゃうものなんだって、あなたはそう言って、悲しい顔をよく私に見せたけれど、今まであったことはちゃんとあったことなんだよ。私たちの間にあったことは確かとか不確かとか、そういった次元にはないことなの。私とあなたはちゃんと一緒にいたんだよ、分かってよ。現実を生きるのがどれだけつらくても、私を一人になんてしないで。私とあなたは生きているだけで、ただそれだけで色んなものを束ねているの。それは一緒にいたことの全部。ねえ、私たちはずっと一緒にいたんだよ? だけど……」彼女は込み上げる嗚咽を止めようと、反射的に手を口に翳したが、思いとどまり、唾を飲み込んで言葉を続けた。次第に普段の顔が見えてくるようだったが、その目はずっと何かに縋りつく怯えのようなものを感じさせた。「だけど、あなたがいなくなってしまったら、それを束ねるものが消えてしまったら、今までの記憶や憂いていた未来だって、全部が全部敵になって襲ってくるんだよ? 束ねるものがなくなって放たれたそれらは凶暴になって、狂った猛禽のように飛び交って、そこらの物にぶつかっては跳ね返って、まるで重力を無視したボールみたいにね。それで、そうしたら、私は飛び交うそれらに傷つけられ続ける暗闇から抜け出る術を失ってしまうの。そんな地獄で一人ぼっちなんて耐えられるわけがないでしょう? 考えてよ。私のことも思ってよ。あなたといた思い出の全てが敵になるのよ。ずっと大切だったものが、大事にしまっておきたかったものたちが、私を傷つける刃物でしかなくなるのよ。私は、そんなの嫌よ……、絶対いや。ねえ、お願いだからそんなことしないで? 私を傷つけないで? 生きて。ただいるだけでいいから。私もつらいけど、ちゃんと生きるから。そばにいるから……」

 そう言って、彼女はさめざめとまた泣いた。僕はぽつり、「ごめんね」と呟いて、まだ感覚のある右腕をかぶさってくる彼女の背に回した。

 ごめんね。ごめん。と僕は何度も謝った。無声映画のような昼が窓辺から僕らを嘲笑っていたが、僕と彼女だけはずっと夜の底にいるようだった。それでいいのだと僕は思った。

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