第3話

 僕はたまに昼間に起きると、本屋に行くついでに雨が降ってても小学校裏の拉麺屋に足を運ぶことがあった。彼女がそこで働いていたからだ。暖簾をくぐり、ドアを開け、カウンターに座る。その一連の動作は、宗教的な儀礼性を伴っていた。僕は解放されるために、スープを飲んで麺を啜った。そこの店舗はさほど繁盛しているわけでもなく、僕は変に気を使わず、ゆっくりと時を過ごすことができた。僕はいつも単品のレギュラーの拉麺しか頼まなかったが、彼女は時折、こっそりと葱を多く入れてくれることがあった。

 彼女は僕をやさしいと諭したが、彼女こそ僕にやさしかった。

 やさしすぎた。

 部屋で共に過ごす時も、久々に並んで落ち葉踏み、歩道を歩いたりする時も、帰って来た時も、迎える時も、僕のための時も、自身のための時も、曇りの日も、雪の舞う日も、桜の日も、蝉鳴く日々も、彼女の言葉は日常に溶け込む以上の効用を発揮し続けた。言葉は、薄く弛緩し、形が捉えられなくなりながらも、それはそこにあり続け、生活を辛うじて繋ぎとめ、僕を打ちのめした。



 ――醜いよね。

 ――そんなことないよ。

 ――いらない器官は切り捨てられたらよかったのに。

 ――それだって君だよ。美しく、ただそれでしかなかった君だよ。

「過去の苦悩は、確かに甘いが、そこに僕は留まっていられない。

 ああ、さよなら、さよなら、さよなら」

 ――さよなら。



 Something went wrong.

 日々が経ち、音楽で耳を塞ぐことが多くなった。彼女の言葉を聞くことがつらくなっていた。僕はもう何も聞きたくなくなっていた。彼女の言葉は、僕の腐った生を高貴な十字架に縛りつけ、自ら耳を削ぎ落とし、目を抉り、口を縫いつける自由を奪い去り、崩れ落ちそうな肉体は嫌な臭いを漂わせて焼け焦げた。乾いた唇の隙間に彼女はどろりと舌を挿し込む。十字架が放つその光は彼女のものだ。彼女は嫌みたらしく咲き誇る桜そのものであり、夜辺に咲いた朝顔は、機械の中の幽霊となった。

 彼女の言葉は彼女そのもので、そこに僕はいなかった。

 言葉は僕の身体を撫でる、彼女のあらゆる景色よりも感動的な自己愛だった。僕とは何の関係もなかった。僕は知らなかった、気づいていなかった。いや、見たくなかっただけかもしれない。彼女は彼女なりの方法で、擦り切れゆく身体で、懸命に自己愛に生きていたのだ。誰かの痛みを網膜に投射することによって自らの存在を確かめるあり方。全ては消え去っていくものだとして、それらすら腐った種子であること。どうせいなくなってしまうのだ。

 感じていた空虚は、自己愛なる言葉によって飾られているに過ぎなかったのだ。それは見えなくされ、隠されることによって、僕も知らないところでじわじわと深度を増していた。最早、底が見えない暗闇だった。僕は僕がどこにいるのかも分からなかった。

 抱き合う時、背を叩く指が奏でる彼女の音は、空しい地平に落ちて弾ける。


 世界からありはしなかった音。ずれた時空。外された蝶番。


 僕は家に鍵をかけて泣いた。僕は自らの衣類に存在を埋め、便器に顔を押しつけて吐き気を漏らさず、喜びを流した。あるはずもない憎しみは遠のいて、求めてない孤独が押し寄せる海岸に僕はいた。

 空虚、それはアスファルトに落ちた金魚に他ならない。


・喪失こそリアルの証といったって、意味もない言い訳、誰にとっての?

・シンメトリーな依存性が屋上から飛び降りれば、止揚は踊った球体運動?

・手首の赤みに泳いだ魚だって、雨水を纏えば感染症?

・アイデンティティーこそ、吐き気であって、嗚咽であって、悲鳴であって、溶けゆく錠剤?

 ――だから何?

 ――くだらないね。


 円環する循環は毒気を放って、回帰する。何度でも。夜が来て、朝が来て、朝を待つだけの夜が来て、夜でしかない朝が来る。

 おお、主よ。

 どうして、去りゆくあなたの御姿を拝む手を、縋りゆく無垢な手を、地上を這う潔白な手を、蠱毒の果てに突き落とすのか。

 純粋でいたかった。

 白くいたかった。残雪のように儚くても、ただ真っ白でいたかった。それだけだった。信じたかった。

 それはただ風に吹かれ、たちまちに消えゆく一筋の祈り。



 次第にある決意が首を擡げて、胃袋を紫に染め上げる。

 今と似た夜に、机で遺書をしたためた。

 そこにあるのは、恥、後悔、かなしさ、運命、そして少しばかりの大事にしてきたやさしい思い出。

 もう終わったことだ。何もかも終わったことだ。

 僕は部屋を見渡す。窓には桜。

 もうここには誰もいない。彼女もいない。いつかの僕もいない。最初からそうであったはずもないが、もうここには誰もいない。

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