第2話
大学は実にくだらないところだった。
と、いって大学を思い出そうとすると、まず頭には彼女のいる風景が上る。dominantというわけなのだろう。何ものだって残ってはいるが。それにしても、彼女の指先が叩く鍵盤が奏でる旋律が、僕の記憶を彩っている。それは朝焼けのように切なさをもって清白に、昼間にアスファルトをタップする雑踏のごとき無機質に、あるいは山鳩が鳴いた気怠さを覆わせ、そしてなんといっても躊躇いと自責の夜半、夜闇のどこまで歩いてもひとりでしかない厭世感を漂わせる。しかし夕焼けのもつ躍動的な情熱さはない。全ては静かだ。それによって僕は記憶の遡及が可能となる。
彼女は家でよく机の上で目には見えない鍵盤を弾いていた。両目を瞑り、時には身体を微かに揺らして、聞こえない旋律の中から答えを探しだすように十指を滑らかに動かした。実家にはピアノがあって、幼い頃から触れていたのだという。一人暮らしにあたっては、部屋も狭いので置かないことにした。僕には音楽についての教養がなかったので、初めの頃は全て同じ光景に見ていたのだが、多くの時が経つにつれて、彼女の表情や仕草から彼女の奏でる音符の配列がどんな意味を持っているのかが透かし絵のように浮かび上がってくるのだった。家に限らず彼女はどこででも指を小刻みに叩き、意識の放流を窺わせた。例えば階段の手すり、例えば講義中の机、例えば信号に待つ自転車のハンドル。彼女は一緒に寝る時も、腕を背に回し、僕の肩甲骨の辺りに微睡みと共に心地よい刺激を落とした。
君は朝顔に譬えられる、といった確信を、僕は彼女を認識した時に抱いた。僕と彼女は駅前のスクランブル交差点で出会ったわけでも、僕が歩道橋から見下ろしてた先に、のちに必然的と定めたくなる偶然が光を伴って生起し、彼女がいたわけでもない。われわれが邂逅を果たしたのは、奇跡的な風景の一部でもなんでもなく、どこにでもある月並みなサークルの新入生歓迎会を兼ねた飲み会でのことだった。大学生御用達の値段が安いだけの飲み屋で、どこにでもいる蟻のごとき群れた人たちがわらわらといて、そういった集団的行動には常識に似たそれなりに守るべき規則があり、彼らはそれを罰という悪夢に怯える子羊さながら従順に己に内面化させたかのように、さほど面白くない会話があちらこちらで手探りに始められ、それ自体が目的化したコミュニケーションを目指して飛び交い、次第に加速・エスカレーション化し、誰かの襟首をつかんでは揺さぶる行為を縷々綿々と繰り返していった。僕はその腐った情報の奔流に悪酔いし、吐き気すら覚え、ゆえに机を挟んだ斜向かいに座る彼女のことも、その時は暴れ渦巻く雑音の中で自分じゃない自分を自分と寸分疑わずに思い込んで振る舞う無価値な人形のひとつに見えて、僕は、手の施しようもなく進行してしまい逃げ場も封じられた癌の末期的症状のごとき状況から、少しでも視線を逸らそうと、必死に目の前のグラスを煽ることに意識を傾けていた。
「懐古は濃密に甘く、居心地のすぐれた洞窟であり、そこに身を投じている限り未来はない」
「そんなことは分かってる、別に忘れたわけじゃない。けれど、少しくらい過去を思い返す、それくらいの権利は僕にもある。それに、どうせ何もかもが意味のないことだ。それこそ、もう分かりきってることでしかない」
とにかく、その飲み会の後、他人の心情を斟酌することもできない屑どもの二次会への誘いを振りきった組の中に、僕と彼女は居合わせ、歓楽街から閑静な山際の住宅地の方へと進むバスに乗り、僕は揺られながら窓の外を見、光の線となって流れる電燈の数を数えていたが、気がつくとさっきまで一緒だった他の参加者たちはそれぞれの停留所に降り立ち、帰路を辿り、バスには僕と彼女だけがいた。その時、僕はようやくまじまじと彼女の横顔を見た。吊革につかまり、僕の隣で外を向いていた。顔も身体も足の先まで、薄闇の風景と常夜灯の橙が走り、すっかり夜色に染まっている。
彼女が視線に気づいてこちらを向いた。僕は愛想笑いに変わる前、一瞬の無表情を愛した。彼女は首を傾けて口を開く。「疲れた?」
「いいや、別に。君は?」
「……少し」
「まあ、騒がしかったからね」
「私、あんまり、ああいうの苦手」
「僕も」
「そう? 一緒だね」
長い髪の輪郭を彩るは、路地裏の感情の凝縮で、動的な眼差しが示すのは、愚にもつかない世界の姿で、彼女の引き攣った笑みには、諦めとため息が横溢している。それらは、それは、紛れもなく夜辺に咲いた朝顔だった。そこには悼みだけが表象されていた。
僕らはいつか行動を共にするようになり、心の底にあるものを分かち合うようになる。僕が初めて、俗にいう信頼なるものがもつ、地平を満たす安らぎと解放されることのない危うさを知ったのも、それを通じてだ。
ところで僕は段々と他人というものが嫌になってきていた。昔からその気はあったのだが、一人暮らしといった環境が実際の行動を許すにあたってそれは促進され、街に住む誰もが自分勝手に振る舞うことなど当たり前のことであるのも知ってはいたが、それが矢鱈と怖くなって、それを嫌悪する余り、自分がそうなってはいけないと過剰に自分の振る舞いすら怯えを感じるようにもなり、外での自らの一挙手一投足が何らかに迷惑をかけてはいないのか不安になり、無暗に純粋なる身近な人に確認作業をすることが嗜癖化し、
――好き? ――え? ああ、うん。の足のもつれるような応酬。
それによって肯定されても一瞬我に返るとそんなことすること自体が、卑小で、みすぼらしく、たちの悪いことだと分かり、そんなことをしていたらもう誰とも話をしたくなくなり、そうであれば、路上を走る車は僕を轢かなかったがために、僕は家に引きこもるようになった。
けれど糸電話というものが、あんなにか細く、弱々しい連絡線によって奇跡的とも思われる通信を可能にしているように、彼女だけは僕から離れず、僕も彼女は離さないという事態が結実した。
「意味のないことによる悲しさを、それにもかかわらず生み出すことは、悪質な行為ではないのか」
「悪質だったら? 迷惑だったら? 誰かを傷つけることのなにがいけないのか? じゃあ何か、ひとり閉じこもって河原の石を積み上げろとでもいうのか、それこそ馬鹿げてることに違いないだろ、僕は、今はそう思ってるさ」
部屋に落とされた物たちは、相変わらず、青白く照らされて美しい死を表明している。僕が何かを彼らに告げられることはない。
しかし、かつての僕には、なかなかそんな風に思うことはできなかった。何を企んでか、そんな僕を彼女だけは必死に励まそうとした。
――大丈夫、好きよ。君は、頑張っているもの。やさしいだけよ。無垢なだけ。やさしさは真の孤独と表裏一体、紙一重だから。大丈夫、好き、好きよ。大丈夫。好きよ。
彼女が言葉を放つごとに、僕は安堵し、千切れ、ぷつんと途切れそうになる生活に一応の力が与えられた。それは呪文のような効用を発揮した。僕は夕方に目を覚まし、手触りのないつかめない夜を死んだように生き、無情な朝を迎え、昼になる前に倒れるようにして床に伏した。こんな日常に意味はないのだと、そんな活動ならいっそ終わらせてしまった方がいいのだと、何度も思い、重い夜を眺め明かした。しかし一日が過ぎ、二日が過ぎても、僕の部屋は意義を失わなかった。僕はひっそりととはいえ、生き続けた。僕は一人になるたびに、彼女の言葉を呼び起こし、ぎゅうと握りしめ、その硝子片のような感触に宿ったぬくもりを慈しんだ。だから、消えなかった。僕の繰り返す消えたさは、彼女の言葉によって隠されることができた。
「空虚?」「いや、彼女」の命題。
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