朱い花弁
四流色夜空
第1話
アパートのベランダからは、通りに面した石塀までの隙間に植えられた桜が見える。
大学進学のために実家を出て下宿をすることとなって、ここに住み始めた日の夜、ふと窓辺を見ると盛った桜の花弁が電燈に白々と浮かび上がり、風に煽られてその幾らかが枝を離れ、儚げに佇む月の元に宙を彷徨い、二三枚が都合よく開いた窓の隙間からはらはらと、まだ実家から送られた段ボールがそこらに置かれたままになっている部屋の中へと入り込み、殺風景な空間にぱっと光が灯った光景が脳内に映し出された、そのことが卒業を間近に控えた今になっても眼の裏に鮮やかに焼きついている。それはまるで荒野に咲いた一輪の花で、キャンバスに落ちた一筋の赤で、交差点を歩く止め処のない灰色の人々のただ中でひとり、違った色合いを持つ君を見つけた時も同じような印象として胸の中にある。君はその細い身体で、大きな瞳で、長い髪で、世界の空気を独特のものに変質させ、纏い、いつになっても自分自身と肌から一ミリほどの周りの空気の輝きを失わせない存在を予感させた。そう、僕も彼女になりたかったのだ。彼女に同質化し、僕が見るくだらない世界と隔絶し、彼女の見るさながら水面から絶えず光の筋が歪みながらも射し込む海底のような世界にいたかったのだ。彼女を認めた時の僕は、微かならざる希望を抱き、確かにそう思っていた。光を見出していたのだ。
運命線は奇妙に歪んで曲折してしか、僕らを歩かせてはくれなかった。
四年間を過ごそうとしている自室の窓辺に腰を下ろしながら、電気も点けずに、射し込んでくる外の電燈や月の光が舐めまわして浮き上がった、ゴミの掃き溜めのような部屋の中を、双眼鏡で遠い風景を眼差す心境で見渡す。部屋は、鼻をつく生活臭を放つものどもで満たされている。床には脱ぎかけの服、折れた栞、くたびれたレジ袋、漫画本、狭い台所には空き缶の山、シンクに放り込まれた汚れた食器、濡れた布巾が所狭しと小汚く積み重なっている。ここで生きてきた、と思うも現実感はない。もう現実が僕の指先から離れて久しくなる。それはいつの間にか、離してしまった風船のように視界の片隅にその残像を留め、雰囲気を留め、しかしその実空高く、この先一生触れることは能わないのだ。朧ながらも光を孕んだ蜘蛛の糸は遠く。寂しさもなく、悲しさもなく、食べかけの喪失感だけ微かに感じつつ。
外を見ると桜が咲きかけていた。膨らんだ蕾たちの中に三分の一ほどの花が開いている。初めて来た時の情景のフラッシュバックを重ねるも、しかし今は段ボールだけの閑散とした部屋じゃない。部屋は夜の中に落ちていき、時間は無常にも経ち過ぎた。
まだ僕は、また僕は、飛び込んでくる桜の花弁を希うことが許されるのだろうか。その権利が残されているだろうか。
無理か。それには、余りにも僕は疲れてしまっている。
終わりに孤独と後悔しか存在していないのならば、始まりにも邪な意味を付加せざるを得ないのだろうか。非情な罪過を背負わせなければいけないのだろうか。
月を見上げて、自嘲気味な笑みを浮かべるも、すぐに崩れて、閉じる前の唇の隙間からためいきが漏れる。
そんなことは成立しやしない。
ここには孤独感も後悔もない。
ここにいるのは僕ひとりで、あるのは行き場所を失った虚無、それ以外はなく、それだけだ。
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