負けて死ね

女良 息子

負けて死ね

 砂岩すないわ泥土でいどが私の胸に果物用ナイフを突き刺したのは、深夜十一時を回った頃、私たちが暮らすマンションの一室での出来事だった。

 まー、しょうがないよね。

 私ってどうしようもないクズだし。

 これまで泣かせてきた女たち全員から刺されれば黒ひげ危機一髪みたいになってしまうくらいには悪女なのだ。

 とりわけ、泥土にはたくさんの迷惑をかけてきたしなあ。

 むしろ今まで刺されなかったのが不思議なくらいである。

 それでも私を許してくれる泥土の愛をこれまで利用してきたわけだけど、私が浮気していると知ったことでついに我慢の限界がきたらしい。バレないようにしていたのに、どこで情報が漏れたんだ? 不思議だ。まあ、今はそんなことを考える余裕もないんだけど。

 やれやれ。

 愛が重すぎると、それが反転した時の憎悪はここまで凄まじくなるんだね。

 胸から生えるナイフの柄を見下ろしながら、私はそんな呑気な感想を抱いていた。

 ずぶり。

 泥土がナイフを引き抜いた。その途端、今まで刃で塞がれていた傷口から血が零れる。そんなグロテスクな光景を見ることで、私の脳はようやく痛覚を認識できた。

 内臓に根を張る激痛が足をふらつかせる。傍にあった机に寄り掛かろうとしたが、膝が崩れ、その場で倒れてしまう。

 顔を上げると、ナイフを持ってこちらを見下ろす泥土がいた。

 その顔は怒りとか悲しみとかでぐちゃぐちゃになっていて、それはもう酷いことになっている。こりゃ感情のコントロールができてないな。外から見てわかるくらい、衝動的殺人の典型みたいな精神状態だ。

 ……今から「せっかくの可愛い顔が台無しだよ」とでも言えば、コロッと機嫌が良くなって許されないかな。百パー無理だろうけど。

 今から立ち上がって逃げるのは不可能。得意の嘘八百で丸め込もうにも、感情の操作を放棄している相手には効果なし。

 つまるところ打つ手がない。

 絶体絶命だ。

 次の瞬間には振り下ろされるだろうトドメの一撃に備え、私は目を瞑った──しかし。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 どれだけ待っても私の体に新たな傷は刻まれない。

 ?。

 どういうことだ。もしかして一思いに刺殺せずに、じわじわと失血死させることを選んだのか? 私が言えたことじゃあないけど、それってかなり性格が悪いと思うぞ? ──そんなことを考えながら、恐る恐る目を開ける。

 そこにはナイフを持ってこちらを見下ろしている泥土の姿があった。

 その姿は数秒前から寸分も変わっていない。

 


「え、どういうこと……?」


 困惑が言葉となって口から漏れる。

 泥土からの返事はない。無視しているというわけではなく、聞こえていないようだ。

 周囲を見渡す。

 室内に動いているものはなかった。

 テレビの画面も、壁に掛けた時計の針も、何もかもが静止している。

 ただひとつの例外は、いつの間にか床に落ちてた砂時計だけだった。

 たしか、この暮らしを始めたばかりの頃にふたりで行ったアンティークショップで買ったものである。

 元々は机の上に置いていたはずなんだけど、先ほど床に倒れた拍子に落ちたようだ。

 空中で半回転して着地したらしきそれは、中身の砂が動いていた。

 まさか、砂時計がひっくり返ったことで時間が止まったとでも?

 んなわけあるか。これまでも何回かこの砂時計を使ったけど、時間停止なんて一度も起きていない。

 だからこの不可思議な現象も、きっと死の直前に起きるとかいう目に映る光景が超スローモーションになる的なアレなのだろう。たぶん。

 

「………………」


 だがどれだけ待っても時間が進む様子は一向に見られない。そのくせ私の腹からは赤黒い液体が元気よく流出しているのだから最悪だ。

 このままじゃ失血死は確実である。いや、その前に気絶するのか?

 とくとくと流れる血。

 さらさらと落ちる砂。

 どちらが尽きるのが先なのだろう。まあどっちにしろ、私が死ぬのは確実なんだけど。

 私は顔を上げて、もう一度泥土を見た。

 相変わらず微塵も動いていない。

 指一つ動かさない。

 何も言わない。

 何も、聞こえて、いない。

 ……………。

 はは。

 なんだよ。

 これじゃあ「ごめんなさい」すら言えないじゃん。

 別に謝りたいって気持ちはないけどさ。

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