彼女の決意

「茂……さんっ」


 文字の一つひとつが胸に沁みる。


「こちらこそ……ありがとうございますっ」


 湖都が手紙を大切に折り畳み、ポケットに仕舞えば、


「私はもう行くわ」


 用件を伝え終えたからか、恋姫は背を向いた。


「避難しなくて大丈夫なんですか?」

「ええ。千年も生きているわけだから、心配ご無用よ。また、どこかで逢えたら」


 そう言い残し、彼女は消えていった。


 一時静かだった空模様は、徐々に異音を轟かせる。天を見上げれば、無数の敵機が遠くから近づいていた。


「また空襲が……? ううん!!」


 諦めの色は、今の湖都の瞳にはない。そして彼女はふと思い起こした。


「茂さんには家族がいたけど、無事なのかな?」


 母と妹。気になった湖都は、路面に散乱した瓦礫を避けながら茂の自宅を探してみたら、


「あれは!」


 おろおろと、行き場に困っている十歳ほどの少女を見つけた。容姿には見覚えがある。茂の妹――幸子さちこだ。


「幸子さん!」


 湖都が声を張り上げると、あっと驚いた幸子は振り向いて、


「お姉ちゃんは……誰?」

「私は茂さんの――……」


 簡潔に事情を説明した。反応を見るに納得とまではいかないが、味方とは思ってくれたみたいだ。母親は配給を受け取りに街へ出かけた最中らしく、幸子一人で空襲から逃れたそうだ。

 着実に爆撃が近づいている手前、


「私と逃げましょう! あなたは絶対に守ります!」

「でも、防空壕がどこか知ってるっ?」

「ええ、あちらに――……」

「ううん、爆発してもうないよ!」

「そんなッ! じゃあ……」


 困った湖都。

 だが、彼女は諦めない。


(夢に手がかりがあるはず。見てきた場面ものを全部思い出せ、私)


 校舎裏で告白された場面から、友達や家族と過ごす場面、空襲から逃げ惑う場面。各場面に映る背景を星座のように脳内で繋げ合わせ、点と点を線に、線と線を画にしていく。


(過去の空襲のときの防空壕はもうない。他には……他には……)


 敵機が空を切る中では思考が焦る。それでも湖都はギュッと唇を噛んで恐怖を払い、必死に思考を巡らせる。すると、ある夢を思い出したのだ。


「秘密基地……!」


 湖都は口にする。

 樹木に覆われた石造りの、おそらく保管庫として使われていただろう空間は秘密基地みたいだと、近所の子供に招かれた茂は話していた。その秘密基地は、現在地からも遠くはなかったはず。


「私、とっておきの場所を知ってます! 行きましょう!」

「うん!」


 湖都の確かな目つきに幸子も頷いた。さっそく二人は先を行く。

 爆音や銃声がより近い。相応に地面も揺れ、湖都たちはよろめいた。それでも、


「がんばってください!」


 細かい瓦礫の飛来から幸子をかばいながら、湖都は懸命に進んだ。目を覆いたくなるものが転がっている。夏場という季節、異臭が鼻をつく。まさに地獄のような世界の中で、湖都たちは前を目指していく。


 そして、


「この木! この辺りに……」


 目印のような大樹の下。草をかき分けると、入口を発見した。まずは湖都が入る。二人なら余裕で匿える広さだ。入口が草木で隠れていたおかげか、誰もいない。

 空襲が続く中で、湖都と幸子はじっと身を潜める。


(お願い、このまま何も起きないで……ッ)


 それからどれだけ時間が経っただろうか。外がすっかり暗くなると、空襲は落ち着いた。

 ふう。安堵の吐息をついた湖都。


「ひとまず、安心かな?」


 目元を緩めた湖都に、


「ありがとう、お姉ちゃん」


 幸子はお礼で返してくれた。


「一つ聞いてもいいですか。答えたくなければ構いません。茂さんの最期……どうして亡くなったのかを、知りたくて」

「うん……。赤紙が届いて、それで徴兵されたの」

「え、徴兵……ですか!? あの身体能力で?」

「うん。運動、すごく苦手だったのに。訓練中に……倒れて死んじゃった」

「そんな……ッ!?」


 あの低い身体能力で徴兵された事実に驚いたが、兵士不足の今ではそうも言っていられない状況。炎天下の厳しい訓練に耐えられなかったのだろうか。敵の前に立つことすらなく、逝った。

 時代が違えば優れた研究者になっていたのかもしれない。それとも経営者? 政治家? けれども無限の可能性を秘めた彼の未来は“人の手”で奪われたのだ。


「ぐうううッ!!」


 父が頭によぎる湖都。――陸軍省に勤めており、赤紙を送る立場にいる。


(そんな父の娘が……彼に恋をしていいの?)


 悔しくて、悲しくて、怖くて。いろんな感情が混ざり、唇が震え、堪えきれずに涙が溢れた。


「うううううっ……! うああああああああああああああっ!」

「大丈夫だよ、泣かないで」


 小さな子供のように泣きじゃくる湖都を、幸子が抱きしめ、優しく頭を撫でてくれる。


 こんなにも冷たい世界は、いっそのこと壊れてしまえばいいのに。


 湖都は願う。そしてその負の願いが引き金か。戦闘機の飛来を知らせる音がまたも轟く。無論、単機だけではない、敵機は次々とやって来る。


「……ああ、今日はしつこいな。一人残らず始末する気なの?」


 ため息とともに脱力した湖都。石の壁にコトンと頭を預け、ふと空を見上げた。


「……、きれい」


 思いがけず、声に出た。

 夜空に煌めく満点の星、その名は――天の川。


「そっか、今日は七夕だっけ。織姫と彦星は逢えたのかな」


 夜の星空はこの世の何よりも美しい。星明りが照らすこの世界が醜いから、余計に。

 羽柴茂さん。あなたは星の一つになり、この世界を見守ってくれているのでしょうか。


「ああ……」


 彼が手紙で遺した『生き様が語り継がれるのなら、それは生きていることと同じです。』


 湖都の瞼裏に浮かぶ大切な言葉。


 そのとき、爆音が地上を揺るがす。


「キャッ!!」


 幸子が悲鳴を上げたら、湖都が彼女を庇うように前に出る。


「お姉ちゃん!?」


 盾になるように、精一杯両手を広げたのだ。


「ううッ!!」


 カコンッ! 機関銃から飛来した弾が石壁を打ち、次の弾が湖都の肘に被弾した。血飛沫とともに身体が後ろへ引っ張られ、焼けるような痛みが腕に走る。


「ぐううっ!!」


 それでも湖都は歯を食いしばり、手を広げ続けた。


「私は……茂さんが好きです!! どうかあなたは生きて、生きて――一人でも構いません!! この想いを伝えてください!! 私たちが生きた証を――残してください!!」


 右太ももと脇腹が撃ち抜かれ、月明りに照らされた中で鮮血が飛ぶ。


「残してくれたら私は……生き続けられます!!」


 銃声をものともせず、少女の叫びが天にこだまする。


「残すよ! 生きて……、生きて、絶対に残すから――――!!」


 その宣言を耳にした湖都は、顎に吐血を垂らしながら幸子に微笑む。

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